静まり返った隊長室には、キーボードを叩く音だけが響いていた。
「すまないな」
沈黙に耐えかねたイザークが椅子の背もたれに体重を預けて苦笑する。
イザークのデスクの横に設置されたソファに座ったアーシェは、何も言わずテーブルの上に開いたコンピュータと向き合っていた。
「呆れてるか?」
「呆れというか、心配です」
アーシェは視線を外さないまま答えた。
「こんなに忙しかったのに、まだ新しい人を付けていなかったなんて…」
溜まっていた未処理の報告書に軽く目を通しただけでも、ジュール隊がこれまで多くの任務をこなしていたことが分かる。だというのに、イザークは未だに新しい秘書官を付けずにいたという。
その事実を知って驚くアーシェに、ディアッカがこっそりと教えてくれた。
『あいつ、自分で全部やるって配置を断ったんだよ』
「ジュール隊長が出来る人なのは知ってますけど、頼るところは頼った方がいいですよ」
出撃が続いていた最近は、流石の彼でも事務処理までは追いつかなかったようだ。
これでは身体を休める時間も取れなかったのではないか。
手伝いを申し出たアーシェに対して「派遣パイロットがやることではない」と一度は拒否したイザークだったが、ディアッカの説得で渋々了承してくれた。
アーシェは画面の端に表示された時刻を確認して、小さくため息をつく。
「みんなでやった方が早いだろ?」と言ったディアッカは、自身の機体のチェックがあると席を離れたきりもう長い時間戻ってこない。
こうして隊長室に2人きりというのも久しぶりだった。
ジュール隊の秘書官として付き従っていた頃は、事務事業の繁忙期になるとよく遅くまで仕事をしたものだ。
「お前じゃなきゃ嫌だった」
感慨に耽るアーシェの耳に不貞腐れたような声が届いて、思わずキーを打つ手が止まった。
「悪いか?」
イザークは拗ねたような視線を向けた。
アーシェはポカンと口を開け、少し子供っぽくみえるアイスブルーの眼を見つめ返した。
「…わるいです」
仕分けた書類を軽くテーブルに打ち付けて整える。
大げさなため息をついて立ち上がったアーシェは、イザークの前に書類の束を差し出した。
「もう…私の上官はみんな公私混同が過ぎます」
「確かに、俺もジークと同じかもな」
イザークが吹き出すように笑う。
「笑いごとじゃないです。付き合わされる周りは大変なんですよ。それに…」
途端、書類を差し出した手にイザークの手が重なった。あ、と反射的に漏れ出た空気がはっきり声として成り立つ前に、グッと手を引かれた。
差し出した書類がデスクの上に落ちる。
前のめりにバランスを崩すと、憧れてきた男の顔が視界いっぱいに広がっていた。
「ん…」
上官への不満を溢していたアーシェの唇は、イザークの唇によって塞がれていた。
「…それに?」
イザークが続きを促しても、突然のことに思考を停止したアーシェは大きな瞳を何度も瞬かせるだけだった。
そんなアーシェの反応を楽しむように、端正な顔が再び近付いてくる。
「アーシェ」
「えっと…あの、ひとりで、抱え込まれると…心配に、なってしまうので…」
顔を背けて身を引こうとしても、イザークの手はその穏やかな表情とは裏腹に力強かった。
「無理だけは、しないでください…」
「悪かった」
戸惑いを浮かべる唇をまた塞ぐ。今度は長く…
優しいその感触に、アーシェは彼と初めてキスをした日の記憶を呼び起こして瞼を閉じた。
此処が隊長室で、今は仕事中であるという背徳感が、なおさら頭の芯を甘く蕩けさせる。
完全にイザークのペースにのまれ、アーシェは上官たちへの不満などもうどうでもよくなっていた。
「秘書官をつけないのも、今回の派遣も、俺の我儘によるものだ。お前の願い、聞いてやらねばならなかったからな」
私の願い…
アーシェは火照る頬を両手で覆った。たしかに、彼のそばに居たいと願ったのは自分だ。
好きな人から投げかけられる真っ直ぐな想いは舞い上がるほど嬉しい。嬉しいのに、アーシェはその想いにどう答えてやればいいのか分からない。
「それに、お前がそばにいると俺は一層頑張れる」
こういう時に女として返す言葉は、何が正解なんだろう?
「遠慮はしない」と彼に宣戦布告されたが、男という生きものは皆こんなにストレートに気持ちをぶつけてくるものなのか。
これまで得てきた様々な知識を必死に探ろうにも、“恋愛”という分野に関してはアーシェはからっきしだった。
戦場で感じる高揚感とは違う、胸を激しく打つ心臓が苦しい…
――ああ、やっぱりダメだ
アーシェはこの派遣を了承したことを今更ながら後悔していた。
「ジュール隊長…」
「ん?」
――この人の前だと調子が狂う
「私…出撃前に死にそうです」