#40
C.E56―その日、ヴァン・エアリスは初めて自身の罪と向き合った。
オクトーベル代表として最高評議会議員に選出されてから、1ヶ月ほど経った日のことだった。
雨の時間を終えた昼下がり、やわらかな日差しが差し込む部屋の中央にそれは居た。
白い木枠のベビーベッド。その上では、フェルト製のモビールがゆらゆらと揺れている。
ぼう然と扉の前で立ち尽くしていたヴァンは、意を決して部屋の中央へと歩を進めた。
恐る恐るベッドを覗きこむと、ふわりと甘いミルクの匂いが鼻をかすめた。
純白の布団の上で、ひとりの赤子が一生懸命に小さい手足を動かしている。
頭上で揺れるモビールを追う瞳の色は深いブルー。穢れを知らぬそれは、ブルーサファイヤを思わせた。
不意に赤子の視線がヴァンを射抜いた。小さな唇がふにゃりと笑う。
「ッ…!」
ヴァンは一瞬たじろいで、その視線から逃れようと後退った。
生まれて間もない赤子の微笑みは、ただの神経の反射だと聞いたことがある。ぼんやりとした視力でははっきりとこちらの容姿を認識出来るはずがない。
だが、ヴァンはこの無垢な瞳に自分の姿が映ることがとてつもなく恐ろしかった。
生まれた意味も、これから見る世界の醜悪さも知らず、ブルーサファイアはキラキラと輝く。
いつかこの宝石がはっきりとした自我を持って自分を映すとき、その時はきっと憎悪と嫌悪が滲んでいるだろう。否、そんな人間らしい感情を持てるならばまだ良い方か…
天使のように愛らしい赤子がこれから歩む道を憂いて、ヴァンは唇を噛み締めた。
「わざわざ呼びつけて、見せたかったものはこれか?アルフォンス」
背後に居た男を目一杯の軽蔑を込めて睨んだ。
アルフォンス・ヘインズは、壁に背中を預けたまま得意げに口の両端を釣り上げた。赤子と同じ色の瞳は、狂気を孕んで怪しく光った。
この男はいつからこんな眼をするようになっただろうか。かつて互いの夢を語り合った学友の面影はそこには無い。
「こんなこと…よく出来たな?」
「ああ、よく出来た」
アルフォンスは短的にそう言って肩を竦めてみせた。
「良い出来だろう?現時点ではデザインも数値も申し分ない。“換え”がきかないのが不安だがな…」
「“あれ”のシステムを随分と改変してくれたと聞いた。うちの設計では不満だったか?あれは公開前の技術も含め、今うちが持てる全てをつぎ込んだ傑作だ」
「もちろん、傑作だよ。感謝している。だからこそ、それに相応しい中身が欲しくなった」
「中身だと?」
ヴァンは拳を震わせて、アルフォンスに詰め寄った。
「この子は人間だ!お前と…ナタリーの子どもだろうが!」
勢いよく胸ぐらに掴みかかっても、アルフォンスの高慢な笑みが崩れることはなかった。
「あれは性能が良すぎる。乗りこなすのは並のコーディネーターでは難しいだろう…せっかく造ったのに活かせなければ意味がない」
「“並”に扱わせても充分過ぎるくらいだ」
「君は私に黙って“並”に合わせたリミッターを付けたな?何故、中身に合わせて機体の方が性能を落とさねばならんのだ」
「パイロットにかかる負荷を軽くするためだ」
「この期に及んで怖気づいたのか?どこまでできるか試してみたいと、君もあれほど乗り気だったのに」
「俺がモビルスーツの開発を急ぐのは、前線に出る同胞の命を守る為だ。少しでも多くの兵士が無事に還ってこれるように…強化すべきは人間ではない」
「戦争をすること自体は否定しないのだな。矛盾だらけで、実に君らしい…」
「話し合いにならない相手なら、戦うしかないだろう」
人類最初のコーディネーター、ジョージ・グレンの死後、地球のプラントに対する圧力は一層強まっていた。
宇宙へ可能性を求めて集った同志達を守るためにも、一刻も早くプラントを独立国家として世界に認めさせる必要がある。
ヴァンはその為の力を求めた。
自身の会社で手掛ける宇宙開発用モビルスーツを軍事転用出来れば、兵量では地球に劣るプラントにも勝機はある。
そうしたヴァンの考えに共感したのが学友であるアルフォンス・ヘインズだ。
非武装を徹底されているプラントでは表立って軍事研究は出来ない。地球の監視から逃れるため、あくまで民間であるエアリスとヘインズの商業利用の研究だという姿勢を装って、2人はひとつの兵器を造り上げた。
完成した銀色のモビルスーツを前に、ヴァンはプラントが真の自由を手に入れる日はそう遠くないと確信した。
あの日、ヴァンは金色の瞳を輝かせ確かに未来へ希望を見ていたはずだった。
――本当にそうだったか?
どす黒い感情が全身を満たす。
長く腹の底でふつふつと煮え立っていたそれは、自覚した途端あっという間に膨れ上がって弾けた。
銀色に輝く美しい兵器を映した瞳は、明るい未来を夢見ていたのではない。
巨大な力を自らの手で生み出せたという感動と興奮。自分の才能に酔いしれていただけだ。
開発に没頭していた日々の自分は、恐らくアルフォンスと同じ眼をしていたことだろう。
「ヴァン、どんなに綺麗事を並べようと君と私は同じだよ。君や君の同志たちが言う“プラントの真の自由”…その根底にあるものは自分達は特別だという選民思想。無能な人間達に理不尽に虐げられる現状への憎しみだ」
冷たいブルーの瞳に映る自分の顔にハッとして、ヴァンは胸ぐらを掴んでいた手を突くようにして離した。
「その憎しみの産物が、あの“仔犬”だろう?」
「俺は…あのプロジェクトには関わらないと決めている…」
「主導しているのは君のお仲間だ。知らぬ存ぜぬでは済まないだろう。あれほど愚かなものを造り出しておいて、“平和”だ、“未来”だ、などと綺麗事を吐ける君たちには感服するよ」
震える手を額にあて顔を歪ませるヴァンに、アルフォンスは呆れたようなため息をついた。
「その点、私は君と違って自分の感情には素直だ。ナチュラルが憎いよ。ヘインズの先代当主は、私を生み出したことで奴等に殺された…憎んでなにが悪い?」
「その復讐を、自分の娘にさせるのか?」
「悔しいが、私にはあれを乗りこなす能力が無い。ヘインズの血を引くこれに私の想いを託したい」
「馬鹿げてる…」
「君の兵器開発への執着も充分馬鹿げてるよ。いい加減、聖人ぶるのをやめろ。偽善者の下手な芝居には、ほとほとウンザリしている」
ヴァンは返す言葉を失い、ただ重い息を吐くだけだった。
長く続く沈黙。モビールから流れるオルゴール音は、滑稽に思えるほど平和な曲調だった。
穏やかな子だ。赤子を横目で伺いながら思う。
この月齢で、誰かの腕の中に居なくとも泣きださないものか。
個人差はあるだろうが、ヴァンの知識の中にある赤子とは少し違って見えた。もっとも、子を持たない男の知識など信憑性にかけるものだろうが…
「そう心配せずとも、大切に育てていくつもりだよ。使い捨てなどでは無い。君たちがやっていることよりずっと人道的だと思うがね」
アルフォンスがゆっくりと赤子に近づいていった。
「これが出来るまで、いくつもの卵を無駄にした。これが君ならば、私のように苦労して調整せずとも済んだのだろうな。君は昔から身体能力に長けていたから…」
指先で赤子の額を撫でて言う。
遠い昔を懐かしむように瞳を細めたアルフォンスに、ヴァンはこれみよがしに大きな舌打ちをした。
「“生まれていれば”、きっと優秀な子だったろう」
自分の子…全てを知っている男から語られる無意味な夢想は、ヴァンの胸の内を土足で踏み荒らす。
彼の傍に赤子がいてよかった。そうでなければ、今この瞬間、彼を力一杯殴りつけありったけの罵声を浴びせているところだ。
議員に選出されたばかりの大事な時に、暴力沙汰などあってはならない。ただでさえ最近の自分は衆目の的だ。
「今朝の報道を見たよ。和解が成立したそうだな」
「もう3年だ。いつまでもゴネていても仕方ないだろう。それに…」
ヴァンは沈鬱な表情で視線を下げた。
「今日でよく分かった。俺には、子を持つ資格がなかったということだ」
踵を返して扉に向う。
「次の約束がある。用件が娘自慢だというのならこれで失礼させてもらう」
一刻も早くこの異様な部屋から逃れたい。ヴァンはその一心だった。
日当たりの良いこの部屋は淡色で統一され、ところどころに星や雲を模った装飾が施されている。部屋の隅では、小さな木馬がこの部屋の主と戯れる日を待ち侘びていた。
幸せな家庭のお手本のような部屋だ。だが、そこに温もりなど一切感じられなかった。
「――アーシェ」
ノブに手を掛けたとき、唐突にアルフォンスが言った。
「これの名、アーシェと云うんだ。彼女が、名は自分が与えてやりたいのだと珍しく意固地になってな…この御伽話みたいな部屋も、彼女が用意した」
「アーシェ…」
一瞬、ヴァンの暗鬱とした頭の中に木漏れ日が差し込んだ。あたたかな風が芝生の香りを纏って頬を撫でる。
「どういう意味なのかは知らんがな」
「ある物語の、主人公の名前だ」
「物語?」
「彼女が好きだった本…子どもの頃、飽きるくらい何度も読み聞かせられた。心優しい少女が、自分の国を救おうと戦う話だ」
「そうか。国を救う少女、か…」
アルフォンスは機嫌良く赤子の顔を覗き込み、そして抱き上げた。
「頼もしい名だな。アーシェ」
「いい名だ」と我が子に笑いかけるその顔が、純粋な愛情によるものだったならどんなに良かったか。
ヴァンはやりきれない思いを胸に、かつての友の名を呼んだ。
「アル」
もう、この愛称で呼ぶことはないだろう。
「お前の言うとおり、これからは自分に素直に生きるとしよう。俺だって地球で受けた迫害を忘れたわけではない…一刻もはやくこの情勢を変えてやる。無論、俺達コーディネーターの勝利で、だ」
今からでも遅くない。この愛らしい赤子がモビルスーツの部品として調教を受ける前に、アルフォンスに人並みの父性が芽生えてくれることを願った。
ヴァンは険しい視線を目の前の父娘に向けて、言い放つ。
「“女神”の出る幕などない」
ヴァン・エアリスが友と袂を分かつことを決意した日、彼の呵責の渦に溺れる人生の始まりであった。
怒りの感情というものは、大抵は少し時間をおけば何てことないものだ。
ヘインズ邸を出てからも未だチリチリと胸を焼く激情の残り火に、ヴァンは表情を厳粛に陰らせた。
自身を割り切った性格であると分析していたつもりだが、今日ばかりはそうもいかないらしい。
“マイウス・ワン”の宇宙港。
ヴァンは次の目的地であるプラントの中枢“アプリリウス・ワン”に向うシャトルの中にいた。夕刻から予定されている同期議員の会合に参加するためだ。
シャトルがゆっくりと発進し窓から銀色の砂時計の全貌が伺えるようになったとき、通路を挟んで隣の座席から秘書がタブレットを差し出してきた。
『受精卵紛失、病院側エアリス夫妻と和解』
画面に表示されているのは、今朝プラント中に知れ渡ったヴァンが原告として争っていた裁判の記事だ。
ヴァンはその見出しだけ読んで秘書に突き返す。
「コメントが欲しいと、数社から取材の申し込みが来ていますが…」
「“あってはならない事故。今後同じような過ちが起きぬよう、病院側には再発防止策の徹底を求めたい”」
眉間に深い皺を刻んだまま、乾いた口調で言う。
「文書でまわしておけ。リリーも憔悴しきってる。以降、俺達がこの件について話すことはない」
「はい」
秘書は直ぐに報道機関向けのコメントの作成に取り掛かる。
ヴァンはシートに身を預けて目を閉じた。
「アーシェ…」
無意識に口から漏れ出たのは、先程突きつけられた自身の罪の名だ。
おとぎ話のなかの少女の名前…
小国の姫は、攻め入ろうとする大国から国民を守るため戦うことを決意する。見事祖国を守りきった少女は、“勝利の女神”として崇められた。
身分の違いなど厭わない、心優しい少女だった。
――あの物語は、どういう終わり方だったか?
斜に構えた子どもだった自分は、空想の話には興味がなかった。いつも途中で眠くなって、“彼女”に揺り起こされた時には既に物語は終わっていた。
『ねぇ、聞いてる?ヴァン』
頭に過ぎった懐かしい声。まだ地球で暮らしていた幼き日、木陰に寝そべりながら聞いていたその優しい音は、いつも穏やかな眠りへと誘った。
きみの声が心地良いから。そんな甘い言葉でも言えるような素直な少年であったなら、いま何かが変わっていただろうか。
少女は最後どうなったんだったか。
少女の傍に、守ってくれる騎士は、愛を囁いてくれる王子は居たか?
平和を手に入れてしばらくすると、“女神”と崇められる少女のその強すぎる力を危惧する者が現れた。
「あれは女神ではない。魔女だ」と、誰かが畏れの言葉を吐いたとき、少女の世界は一変する。
「あの話…」
ヴァンはぼんやりとした記憶を必死に辿った。
――アーシェは、幸せになったのか?