全長1,200メートルの巨大空母の中で、アーシェは焦っていた。
周囲は入り組んだ白い通路。
自分の目的地はジュール隊に割り当てられた士官室。
今回の空母に関する資料は、先に向かったイザーク達に預けてしまっていて、今の自分は手ぶら。
アーシェは息を呑む。
まだ記憶に新しいディアッカの悪戯な笑みが、頭を過ぎった。

――これは、もしかして…

「…迷子だ」
早く行かなければ。
迷ったなどとエルスマン副長に知られたものなら、しばらく彼のいいおもちゃにされてしまう。「気を緩めるな」と隊長に言われたばかりなのに…
アーシェはとりあえず最初のレクルームに戻ろうと考えた。あそこなら他の秘書官に会えるはずだ。
踵を返してもと来た通路を進む。
向こうから自身の上官ではない、別の白い軍服が来るのが見えた。別の部隊の指揮官だろう。
アーシェはすれ違いざまにその白服に会釈をして、再び視線を進行方向へ戻す。
次の瞬間、彼女は何者かに腕を捕まれ小さく悲鳴をあげた。
バランスを崩した身体が無重力の空間に浮く。
腕を掴んだ人物の、大きく見開かれた黒い眼と視線がぶつかった。
指揮官服の男―見知らぬ黒髪の青年は、アーシェを見つめて知らない名前を呼んだ。
「――フィーネ」




“フィーネ”

その名に、アーシェの心臓が大きく鼓動した。一瞬、頭の中にバチバチと火花が散るような感覚が走る。
アーシェはその名を知らない。
だが、目の前の彼はアーシェの顔を真っ直ぐ見つめると、再びその名を呼んだ。
「お前、なんで…」
「えっと…えぇ?」
アーシェは困惑した。
「…あぁ?」
宙に浮かびながらあたふたとするアーシェの間抜けな反応に、青年は眉を顰めた。
あぁ? とはなんだ。なぜこの人がキレ気味なのか。
アーシェは失礼な態度の彼に少しだけ反感を覚えた。
2人の間に数秒の空白が流れた後、彼はようやく自らの間違いに気付いたのか、ハッとした様子でアーシェを掴んでいた手を離した。
「突然すまない」
宙に浮かんでしまったアーシェを慌てて引き戻すと、彼は一変して申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「知り合いに、似てたから。つい…」
怪我はないか? と青年は肩を抱いて心配そうに尋ねる。アーシェは小言のひとつでも言ってやろうかと不満げに目を上げた。
青年の顔をよく見ると右目の端に傷があった。
黒髪、右目の傷、白い軍服…
「エアリス隊…」
その失礼な青年の正体に気づいたアーシェは、直ぐさま姿勢を正して敬礼をした。
「…やめてくれ」
彼は困ったよう頭をかいた。
「本当にすまなかった。驚かせてしまったな…」
「いえ、大丈夫です」
彼の名は、ジーク・エアリス。
初めて対面するザフトの特殊部隊の隊長は、アーシェが想像していた人物像とは少し違っていた。
ユニウスセブンの合同任務では隊長同士が回線越しにやり取りするだけで、アーシェは彼と対面することはなかったのだ。
もっと、怖い人かと思った。
“漆黒の餓狼”という、彼の異名をザフトで知らない者はいない。
彼に関する多くの逸話は現実離れしていて、アーシェはどこか別の世界の話に感じていた。
先ほど感じた心臓の鼓動がモヤモヤと胸に残るのを感じながら、アーシェはぼんやりとジークを見ていた。
「――うちの秘書官に何か用か?エアリス」
突如、背後から聞き慣れた声がした。
振り返ると、イザークが険しい顔でこちらに向かってくる。
アーシェは今度はイザークに力強く腕を掴まれ、彼の背中に隠されるように退げられた。
「部下でもない女性に、こんなところで声をかけるのは関心しないな」
イザークの口調は冷ややかだった。
規律に厳しい彼のことだ。この状況に何か誤解をさせてしまった気がして、アーシェは慌てて弁解の言葉を探す。
「すまない。俺の勘違いで彼女に失礼なことをしてしまった」
「…失礼なこと?」
イザークは不審な目でジークを睨んだ。
「ちょっと引き止められただけです。人違いで…」
アーシェが背後から小声で説明する。
「他意はない」とジークは苦笑した。
「ジュール隊長の秘書官だったのか。先日のユニウスセブンでは世話になった」
ジークはイザークの前に右手を差し出した。
「直接会うのは初めてだな。ジーク・エアリスだ」
「…イザーク・ジュールだ」
イザークはまだ腑に落ちないようだったが、その手を強く握り返した。
「秘書官の君は?」
「アーシェ・ヘインズです」
「ヘインズ…といえば、“あの”ヘインズ?」
「恐らく、仰るとおりのヘインズです」
「そうか…」
今さら生家のことを言われると気まずいものだ。アーシェは複雑な胸のうちで頷いてみせた。
「本当にすまなかったな。アーシェ」
「いえ」
ジークは人の良い笑みを浮かべて、イザークとアーシェの顔を交互に見やった。
「またジュール隊と一緒になるとはな。“ヤキンの英雄”がついてくれるならこれほど心強いものはない。宜しく頼む」
「じゃあまた」と、ジークはその場を後にした。
通路を曲ったジークの背中が見えなくなった時、イザークはようやくアーシェに視線を向けた。
「で?」
彼の眉間の皺は、まだ治らない。
「お前は?ここで、何を?」
アーシェはビクリと肩を震わせる。
「そういう隊長は…どうして、ここに?」
「俺の秘書官がなかなか戻ってこなくてな。捜索だ」
鋭い視線に耐えかねて、アーシェは両手で顔を覆った。
「すみません、隊長…」
顔が一気に熱を帯びるの感じた。
「…迷子に、なりました」
消え入りそうな声でそう言うと、ゴンドワナの通路に大きなため息が響いた。