初めて母―ナタリー・ヘインズの笑顔を見たのは12の時だった。
アーシェが物心ついた頃から、母の目は哀れみと畏れを含み、怯えるように遠いところから自分を見ていた。
「アーシェ」
父―アルフォンス・ヘインズの埋葬を終えた夕暮れ。
リビングに差し込んだオレンジの光に照らされた母の顔は、穏やかであった。
この12年で彼女に名を呼ばれたのは、片手で数えるくらいしかない。
だが、その日の彼女は娘の存在を確かめるように何度も名を呼び、力いっぱい抱き締めた。
アーシェは彼女の行動の意味を理解出来ず、首を傾げる。
「お母様?」
アーシェにとって“お母様”という名の彼女の存在は、怖い父親アルフォンスの横で、小さく息を潜めている“何か”でしかない。
彼女はそういうもので、アーシェがヘインズの一人娘として、“フリッグ”のパーツとして役割を与えられているように、彼女もまた自分の役割をこなしてるだけなのだと、これまで恨むことも何かを期待することもしてこなかった。
「これからは、貴女の自由に生きなさい。自分で選んだ道で、自由に…」
彼女の頬に涙が伝う。
アーシェはそれを「きれい」だと感じた。
もとより彼女は美しい人だった。
輝く長いブロンドヘア。澄んだグリーンの瞳…
自分の“素材”となった彼女のその美しい色を、娘のアーシェは受け継ぐことはなかった。アーシェの深いブルーの瞳は、冷たい眼差しの父から受け継いだものだ。
「…奥様」
リビングの扉の前で待っていた“教育係”のアニタが控えめに声をかけた。
彼女はアーシェを抱き締める手を名残り惜しそうに離す。
アニタに手を引かれてリビングを後にする時、背中で彼女の声を聞いた。
「ごめんなさい」と、消え入りそうな小さな小さな声だった。
「貴女を愛していたわ」
愛していた。
はじめて聞いた言葉だ。これまで叩き込まれてきた沢山の“勉強”の本の中には、そんなものは載っていなかった。
寝る前に調べておこう。
アーシェは、ぼんやりと考える。
分からないことがあるなんて、お父様に叱られてしまうから。
「おい」
ヒヤリと頬に伝わった感覚に、それまでソファにもたれ掛かっていたアーシェの身体が小さく跳ねた。
視線を上げると、そこにはジークがドリンクボトルを片手に立っていた。
「いつの間に…びっくりするじゃないですか」
「何度も呼んだ」
「ほら」と彼はボトルを差し出す。
「ありがとうございます」
アーシェはそれを口にして息をついた。
「あの、イルミさんは…」
先ほど見た、目にいっぱいの涙を浮かべた幼い顔を思い出す。どこか怪我をさせてしまったのではないかと不安になった。
「大丈夫だ。さっきのは、メンタルの問題でな」
「メンタル…」
「怖い、痛いじゃなくて、“負け”ってことがとにかく嫌なんだ、イルは。ああなると、俺じゃなきゃ手に負えなくなる」
「すみませんでした。私…」
「しばらくイルの機体は修理だな」
「本当にすみません」
「楽しかったか?」
「…はい」
始めこそ久しぶりの感覚に戸惑ったが、今日イルミと交戦してはっきりと分かった。容赦無く自分に向けられる攻撃を交わす緊張感が気持ちいいと。
「なら良かった」
ジークは乾いた口調でそう言うと、アーシェの隣に1枚の紙を投げる。
「正式な辞令が出た。イザーク・ジュールには俺から説明したが、お前もちゃんと挨拶しておけ」
その言葉に、アーシェは不安げに瞳を伏せた。
あの真っ直ぐな目に向き合う自信が無かった。
何も知らない幸せなアーシェ・ヘインズは、もういない。こうして戦いを「楽しい」と感じる愚かな自分を、彼は軽蔑するだろう。
自分の見るあの優しく澄んだ瞳が、変わってしまうのが怖かった。
最期に余計なことをしてくれたものだ…
アーシェは記憶の中の母に吐き捨てる。
どうせ血には抗えない。こんな想いをするくらいなら、ただのパーツでいた方が楽だったのに…