灰白色のワンピースに着替えた彼女は、全身が映る鏡の前で薄く口紅を引いてニッと口角をあげた。
それから、空間に香水を軽く一吹きしてその場で回ってみる。柔らかなプリーツ生地がフワリと舞った。
その様子を、ジークはベッドにうつ伏せになったまま眺めていた。
「——フィーネ」
まだ覚醒しきらない思考のなかで名を呼ぶと、彼女の肩が小さく跳ねた。
「起きてたの」
一連の動作を見られていたのが気恥ずかしくなったのか、照れたように首を傾げた。細められた瞳が窓から差し込んだ光で美しく光る。
「おはよう、ジーク」
「ああ、おはよう…」
こんな朝が来ることを、心のどこかで望んでいたのかもしれない。ジークは初めて感じる幸福感のような温かい感情に自嘲した。獣の自分には不釣り合いな感情だと思った。
穏やかに「おはよう」と笑い合うなど、普通の人間のような生活…だが、この幸福も今だけだ。
「それ…」
ジークは彼女が手にする小さな瓶を指した。
丸い小瓶は薄紅色。ネック部分には黒いベルベットリボンが結ばれている。
「これ?」
「お前、いつもそれなんだな」
出会った時と同じ。甘い花の匂いだ。
「甘い方が好きなの。人によっては甘ったるいと感じるかもだけど」
「貰い物でね」とフィーネは笑う。
それが誰からなのかなんて、聞かなくても察しがついた。
ジークは顔を顰めて言い放つ。
「嫌いだな」
その言葉にフィーネは目を丸くした。
「好きだって言ってたじゃない」
「今、嫌いになった」
子供のような言い分に、彼女はクスクスと笑ってベッド端に腰掛けた。
背中を向けたジークの黒髪を撫でる。
「ねぇ、知ってる?」
「何を」
「嗅覚の記憶は色褪せないって」
子どもをあやすような、穏やかな口調で語りかける。
「私はジークの匂い好きよ。少しだけ甘くて…バニラ、入ってる?あの黒い瓶のやつ。あとタバコの匂い…」
澄み透った声だ。ジークはそれに心地良さを感じていた。
「きみと同じ匂いがする度に、私はきっと思い出すよ」
「よく言う…」
ジークは身体を起こすと、大袈裟にため息をついて彼女を抱き寄せる。
鼻先をかすめる清純な少女のような匂い。その中に微かに感じる官能的な甘さは、ダチュラの花を思わせた。
「会うたび振り出しから始めなきゃいけないこっちの身にもなれよ。命がいくつあっても足りない」
会う度に忘れて、殺されかけて、抱き締める。
もう何度もこの繰り返しだ。
だが、今度こそ終わらせる。ジークは心に決めていた。
先の大戦で叶わなかった目的を、再び開戦することで果たすのだ。
フィーネがこれから持ち帰るザフトの機密データは、開戦の火種のひとつだった。
例え彼女がコーディネーターを憎んでいたとしても構わない。彼女を繋ぐ鎖さえ壊すことが出来れば、あとはどうとでもしてやる。
ジークの想いなど知る由もなく、力を込めた腕の中の彼女は「苦しいよ」と笑い声をあげていた。
顔を近付けて口付けを強請ると、フィーネは寸前でジークの薄い唇に指を当てた。
「塗ったばかりだから。だめ」
ジークは不満げに眉を顰めると、渋々彼女の頬に唇を寄せた。
一瞬、触れるだけの口づけだったが、彼女は満足げにジークを見つめた。
お互いの顔を目に焼き付けるように無言で見つめ合う。彼女の美しい瞳に映る男は、軍人とは思えないほどひどく情けない表情をしていた。
彼女が「欠陥品」だと忌み嫌うこの瞳をジークは好きだった。澄んだエメラルドとサファイアを否定した“製作者”とは、どんな驕慢な人間だったのだろうか。
誰か知らないが、もしまだ生きているなら殺しておこう…
そんなことを考えていると、フィーネは「行かなくちゃ」とゆっくり立ち上がった。ワンピースのプリーツを整えて、少しだけ姿勢を正す。
「またね、“狼さん”。次こそ殺しちゃったらごめんね」
柔らかな笑みとは裏腹な物騒な言葉に、ジークは吹き出すように笑った。
「これまで、一度でも俺に勝ったことあるのか?“チビ助”」
宝石の奥に不敵な光が宿る。
愛しい人は、美しい声で別れの言葉を口にした。
「さようなら、ジーク。どうかお元気で…」
——今度会うときは、戦場で