少しの間、無言で睨み合った。
ひりついた沈黙を破ったのはジークの方だった。
「…大切だよ」
ジークはフッと観念したように笑う。
「でも、恋人じゃない」
その目は、アーシェが初めて会った時に見せたそれだった。
「どんなに大切に想っていてもな、手に入らないんだ。伝えてもすぐ忘れやがる…むこうは俺の苦労なんて何も知らない」
どこか遠くへ想いを馳せるように目を細めて「片想いだ」と吐き出す…アーシェは聞いてはいけないことを聞いてしまった気がした。とりとめのない質問にぶっきらぼうな返しをしていた時とは一変して、“フィーネ”を語る彼の顔は人間味のある泣きそうな表情を浮かべていた。
だが、それも一瞬だった。
「そういうお前は?」
「…え?」
彼はすぐに表情を切り替えて立ち上がると、その場で大きく身体を伸ばした。
「これまでに恋人は?」
自分のことに話を振られて、アーシェは気まずそうに身を縮めた。
「いません、けど…」
「だろうな」
馬鹿にしたような口調にアーシェはムッとする。
確かに恋愛が何かを自分は知らない。
人を愛しく思うことがどういうことか、“お勉強”には載っていなかったし、普通の人間として暮していたときだってそういう出会いはなかった。
それでも、そんなに嘲笑うような視線を向けなくてもいいではないか…
抗議をしようと口を開いた瞬間、アーシェの視界は反転した。
突然切り換わった景色。
目の前に広がるのは部屋の天井。
真顔で見下す自分の上官。
ベッドスプリングがきしむ音…
「1人でもいたら、こんな軽率なことは出来ないだろうし…」
頭上からジークの声が降ってきた。
呆然と大きく瞬きをしたアーシェは、彼にベッドに押し倒されたのだと理解するまでに数秒の時間を要した。
「お前、男の部屋でベッドに座ることの意味、分かってないだろ」
「意味…」
耳元で低く言われたその言葉に、顔が一気に熱を帯びるのを感じた。
慌てて抵抗するが、彼によってベッドに縫い付けられた両手はピクリとも動かない。
「あと、その“甘いの”…俺の前で付けるなって言ったよな」
調子に乗り過ぎた。アーシェの頭に後悔が過ぎる。
それと同時に、むかし乳母に口酸っぱく言われた言葉を思い出した。
あれは確か、ザフトに入隊する時だ。時代錯誤なあの忠告。
『――お嬢様、いいですか?近寄ってくる男はみーんな狼だと思ってくださいね!』
これでは、まるで本当の…
「…狼さん」
“狼さん”
無意識に出た言葉に、ジークは虚をつかれたような顔になってピタリと動きを止めた。
何かを言い返そうと彼の薄い唇が震えるが、直ぐに思いとどまったようにキツく結ばれる。
やがて、彼は大きくため息をついた。
「お前な…」
黒い瞳が呆れたようにアーシェを見下す。
「知らないでやってるなら、たち悪いぞ」
「なにがですか。冗談でも部下を組み敷く隊長こそたちが悪い。これ、私が上に報告したら一発アウトですよ」
彼が本気では無いことは分かっていた。これは、恋愛経験の無い自分が、他人の色恋に首を突っ込もうとしたことへの仕返しだ。
「退いてください」
アーシェは彼をキツく睨みつける。
彼が手の力を緩めた時だった。突然部屋のドアがスライドする音がして、2人はハッと顔を向ける。
「――ジーク。もうすぐ入港だと、グラディス艦長が呼んで…る…」
穏やかな口調で入って来たもう一人の部屋の主は、目の前の光景を見て固まった。
「あ」とアーシェとジークは顔を見合わせる。
「アスラン…」
「ザラ隊長…」
この状況はまずい。
2人は思った。
ドアの前で立ち尽くしたアスランは、顔を真っ赤にして口をパクパクと開けている。
「あー、アスラン…これはな…」
ジークが弁解の言葉をかけるより先に、アスランは慌てた様子で踵を返した。
「お、お邪魔しましたッ!」
逃げるように部屋を出ていくアスラン。
閉まったドアを2人は呆然と眺め、再び顔を見合せた。
2人の上に気まずい沈黙が落ちた。
「すまない…揶揄いが過ぎた」
アーシェを引き起こして謝罪する。
「いえ。私も調子に乗り過ぎました…すみません」
ベッドに座り直すと、お互い気まずそうに背中を向けた。
「アスランには…俺から、上手く言っておくから」
「…そうしてください」
「入港したら、少しだが休暇を取らせる予定だ。ゆっくり休め」
「…はい」
アーシェは立ち上がってドアへと歩を進める。
部屋を出る間際、「そうだ」と思い出したように振り返った。
「でも、良かったです」
その表情には安堵が浮かぶ。
「その言い方だとお元気なんですよね?フィーネさん」
こんな混乱した情勢、ましてや彼らの出生は壮絶なものだ。彼の大切な人が“亡くなった想い人”でないのは、せめてもの救いだろう。
アーシェは純粋にそう思った。
「生きているなら、良かったです」
生きているなら、会えることが出来るなら、いつか想いが届くことがあるかもしれない。
一人の男性にこんなに想われるなんて、きっとその人は幸せな人だ。
アーシェは胸に温かいものを感じながら部屋を後にした。
アーシェを見送ったジークは、しばらくドアを見つめ、やがて力なくベッドに腰を下ろした。
頭を抱えて深いため息をつく。
「“生きているなら良かった”…?」
知らないで言っているなら、なんてたちの悪い女だ…
たまに出る純粋無垢な言動は、育ちの違いだろうか。ならば、彼女が信頼を寄せる“乳母”という人物は上手い育て方をした。
ジークは眉を下げてひとり苦笑した。
“狼さん”
そう言って自分を見上げた純粋な瞳に、ジークは自分の理性が崩れそうになるのを感じて戸惑った。
――あいつじゃないくせに
その顔で、その声で、そんな風に呼ぶな…
「あー、くそッ…!」
ベッドに身体を投げ出して、天井を見上げる。途端に目頭が熱くなるを感じて顔を歪めた。
無意識に見せるアーシェの言動に心を乱されている自分に嫌気がさす。
やっぱり引き込むんじゃ無かった…
今からでもイザークに返すか?
混乱する頭を整理しようと、しばらく天井を仰いだ。
どれくらいの時間が経ったのか、突如として部屋に響いた電子音がぼんやりとするジークの意識を現実に引き戻した。
ベッドサイドに置いたプライベート用の回線がジークを急かす。表示する名を確認して、ジークはいつもの怜悧な表情を顔に貼り付けた。
ジークが一番信頼を置く部下の名だ。
「悪いな、アーシェ」
慈愛に満ちた美しい微笑みを思い浮かべて謝罪した。その謝罪が何に対してかは、恐らく彼女が知る時は一生来ない。
お前は大事な部下だ。他の隊員たちと同じ俺が背負わなければいけない、大事な…
ジークは身体を起こすと、鳴り続けるそれに手を伸ばした。