見上げた空に浮かぶ満月に、アーシェは目を細めた。
淡い光に照らされて、目の前に広がる水面がキラキラと光る。
「地球って綺麗なところね、アニタ」
ミネルバの甲板で、アーシェは電話の向こうのアニタに優しく語りかける。
「プラントの空とは全然違う」
記憶が戻ってから、転属手続きや演習による多忙でアニタと直接会うことは叶わなかった。アーシェは地球に降りる前の僅かな空いた時間に会いたいと彼女に連絡したが、彼女は「会わせる顔がない」と面会を拒否した。
アーシェはアニタに何の恨みも持っていなかった。彼女の行動は全て自分を守る為のものだったと理解していた。
物心ついた頃から、アーシェの“メンテナンス担当”兼“教育係”として一緒に居たアニタは、厳しくはあったが距離を置かれていた実の母より母親らしかった。
そんな彼女から突然電話が来たのだ。
久し振りに聞く声に、アーシェは嬉しくて堪らなかった。
「この任務が終わってプラントに戻ったら、またゆっくりお茶しましょうね。次は何処がいいかな」
カレッジが多いディセンベルは、学生向けの店も多い。最近チーズケーキが話題のカフェがあると、流行に敏感なメイリンから教えてもらったばかりだ。
今度はそこにしようか…
そんなことを考えていると、電話の向こうからため息混じりの声がした。
「…お嬢様」
「なぁに?」
「もう、連絡を取り合うのはやめましょう」
「…え?」
「私はヘインズから雇われた人間です。ここまで来たら、もう私の仕事は終わりですから」
今まで聞いたことのない、低く冷たい声だった。
アーシェは突然水をかけられたような不気味さを覚えた。
「いつ思い出されるかと思ってヒヤヒヤしてました。ただの雇われ研究員だったとはいえ、兵器として人間を作ったなんて人生の汚点ですからね」
彼女は淡々と語る。

兵器

汚点

突然のことに、アーシェは理解が追いつかず、ただ震える手で携帯を耳に当てるのが精一杯だった。
彼女は今どんな顔をしているのだろう…
記憶の中の優しい母親のような笑みを思い浮かべると、喉が詰まる感覚がした。
今話している無慈悲な女の声は、本当にあのアニタ・ドナートなのか?
「だから、何かの拍子にブロックワードが発動しないようずっと見張ってたんです。まさか、“フリッグ”を所有していたのがエアリスだったなんて誤算でした。やっぱりザフトに入るのを無理矢理にでも止めれば良かった…」
単調な声で彼女は続ける。
「…こうなったら仕方ないです。もう、プラントから離れて暮らそうと思ってるんですよ。ヘインズから充分過ぎるほどの手切れ金を貰っているので、生活には不自由しません」
足元が大きな音をたてて崩れていく気がした。
アーシェは震える唇を必死に動かした。
「…ね、アニタ?」
ようやく出た声は、掠れてしまった。
ちゃんと、電話の向こうまで届いているのだろうか。
「待って…なに、言ってるの…?」
なおも電話の向こうの声は冷たく追い打ちをかける。
「ですから、もう自分の人生の汚点とは縁を切りたいんです。これを機に私は新しい人生を歩みたい」
時が止まった。
アーシェは息をするのも忘れて彼女の言葉を聞く。
鬱陶しいくらいお節介焼きなアニタ…
いつも着る服から、化粧まで、何でも世話を焼きたがった。両親を失ったアーシェの唯一の心の支えだった。
「私…アニタが居なくなったら、独りぼっちになっちゃうよ…」
“兵器”としての役割を失ってからも、そばに居てくれた彼女の愛情は本物だと信じていたのに…
電話の向こうから声が聞こえなくなった。
本当は何かの冗談だと、今からでも軽快な笑い声で言ってくれないだろうか。
アーシェは固唾をのんで彼女の返事を待った。
「お嬢様なら大丈夫ですよ。一緒に戦う仲間がいるんでしょう?」
しばらくして聞こえたアニタの声は、少しだけ穏やかになっていた。だが、その内容はやはりアーシェを突き放すものだった。
「仕事、でしたけどね…流石の私でも貴女に少しだけ、情はありました」
この状況をやっと脳が理解したのか、今更涙が頬に一筋伝った。
「生きて…くださいね。貴女は私の研究員人生をつぎ込んだ最高の芸術ですから。簡単に壊れられたら困るわ」
「アニタッ…!」
「お願いですから、もう二度と連絡はしないで。アーシェ」
待って。アーシェの懇願虚しく、通話はブツリと無慈悲な音をたてて途切れた。
アーシェはその場にへたり込んだ。力が抜けた掌から携帯が落ち、甲板を滑った。
穏やかな波音が沈黙を包む。
光を失った双眸は、目の前に広がる巨大な水溜まりを呆然と眺めていた。