部屋の前にまぁるい影が横たわっていたものだから、名前はアッと声をあげてしまった。でもそれが見知ったものだと気づくと途端に困惑した。何をしていますの太宰さんーー。そう訊ねるより早く、影がぐうんと名前に詰め寄った。
「遅い!」
怒られ、目を丸くする。でも太宰はそんなことちっとも気にかけない。「こーんな夜遅くまで俺を待たせるなんていくらファンでも許せないね」ぐちぐちぐちぐち。腕を組んでこんこんと説教してくる。「わかんないかなぁ、俺の時間を使うのがどれだけ贅沢なことか」いろいろと言っているけれどあまりに長いから半分も頭に入ってこない。わかるのは太宰が怒っているってことと名前を待っていたってことだけ。
だから名前は聞いた。
「わたくしに何かご用がありましたの」
名前にとってはしごく自然なーー当たり前の疑問。しかし太宰は頓狂な声をたてた。「ハァっ?」驚きに満ちた顔。そんなこともわからないのかと言いたげな語調。でも名前は首をかしげるほか道がない。
「それ、本気で言ってる?」
「嘘をつく理由がありまして?」
正直に言うと、長々とした溜め息を吐かれた。文字にすると「ハァァァァァ……」というくらいの深さだろうか。
どうやら、名前と太宰の間には大きな隔たりがあるようだ。
「……もう、いいから早く部屋あげてくれない?」
やれやれって感じで太宰はドアを指した。こっちが譲歩してやりましたよ。そんなノリで言われても名前にはどこを感謝すればいいのか。
とはいえ名前と対するときの彼はいつもこんな調子だ。だから気にするだけ無駄と秋声にも直哉にも言われている。ーーアイツはああいうヤツなんだよ。さんざん絡まれた挙げ句、芥川を見かけるとすぐに興味をなくされるーーそんなことを繰り返された小説の神様はすこしやつれたように見えた。
「わたくしの部屋に用があるなら自由に入ればよろしいのに」
名前の部屋は名前と秋声だけが好きに入れる仕組みになっていた。それに異を唱えたのは太宰本人だ。彼がなんのかんのと言うものだから、秋声の方が折れた。ーーあくまで僕は反対の立場をとらせてもらうけどね。それでもまぁ名前がいいならそれでいいよ。名前の優しいお世話係はそう言って、名前の頭を撫でてくれたものだ。
だから当然、太宰も知っている。覚えていなきゃおかしい。
「せっかく太宰さんも入れるようにしましたのに」
今では三人が鍵を持つようになった部屋の前。こんなところで問答を続けていても実などなかろう。
と、名前は思うので、太宰が何事か言いかけたところで扉を開けた。
「どうぞ」開いたドアの先に向けて入室を促す。すると太宰は肩を竦めた。やれやれ。またしてもだ。またしても、そんな顔をして。
「最初っから素直にそうすればいいんだよ」
などとぼやきながら部屋に入っていった。結局目的を話すつもりはないらしい。一切の問いを拒絶した背に名前は溜め息を吐いた。もちろん、心の中だけで。
「それで?」
開口一番。名前の出したハーブティには手もつけず、太宰はソファに座るやいなや言った。それで?名前は小首を傾げた。「"それ"じゃあわかりませんわ」すると太宰の眉がきゅう、とつり上がった。
「……こんな時間まで何してたのって言ってんの」
感情を抑えた声。対照的に、苛々と揺れる膝。胸で組まれた腕の先、人差し指が上下に振れる。トントン、トントン。音が壁のように迫り来る。
追いたてられた袋小路で、名前はカップに口をつけた。うん、おいしい。レモンバームはホットでもいいけれど、アイスだとなおのこと涼やかで心に染み渡る。太宰さんも飲めばよろしいのに。そう思うだけで決して勧めることはしなかった。名前はちゃんとわかっていた。太宰と自分には共通項が多いけれど、でも絶対に同じじゃないことを。
「名前、」
「ええ、ええ、聞こえています。聞こえていますから」
どうか落ち着いてくださいな。そう言うと余計に太宰の顔が歪むのも、名前はわかっていた。わかっていて、口にした。案の定太宰はひどい顰めっ面で顔を背けた。
「ほんっと、イヤな女」
「あら、今ごろ知りましたの」
ゆったりと笑むと、太宰は舌を打った。いまいましい。そんな感じで。「知ってるさ、会ったときからな」苦い味が口に広がる。「でもここまで意地が悪いとはね」それには名前自身が一番驚いている。まさか自分がここまで嫌な性格をしているとは思わなかった。どうも素直になれないのだ。こと、太宰に関することでは。
太宰の元来幼い顔がいじけて余計に子供っぽくなっている。いたいけな少年のそれ。こみ上げてくる嗜虐心を飲み干して、名前は眉尻を下げた。いい加減からかうのはやめよう。「ごめんなさい」謝ったのに、絡みつく靄は晴れない。いや、より一層厚い雲が立ち込めたみたいだ。
「なにそれ」
泡立つ波。さざめく雲。震えを隠しもしない声。「謝るようなことしたってわけ」雨が、降りだしそう。
名前は息をのんだ。「それは、」そうでしょう。だって、わたくし、あなたをからかって楽しんでいたんですのよ。謝るのが筋でしょう。言いかけて、そうではないと思い直した。そうではない。そうではないのだ。「……いいえ」そんなこと、太宰の目を見ればわかるのに。彼が降ろした暗幕の先で微かに瞬く不安の光を、名前が見逃してはいけないのに。
「わたくし、あなたが好きよ」
それだけはほんとうだ。だからすべての色を削ぎ落として、名前はまっすぐに言った。あなたが好き。彼の誂えた殻に言葉を突き立てる。波打つ瞳に訴える。
「……どうだか」
先に目をそらしたのは太宰の方だった。どうだか。投げやりに放られた言葉。期待なんて少しも見せない声。
それでも名前は彼を見つめた。見つめ続けた。「きっと朝になったらすぐに思い知るわ」意味がわからない。そう言いたげな胡乱な一瞥。それにも怯まず名前は微笑した。
「だって、ねぇ、今日は特別な日でしょう」
一週間も前からあなたが浮き足立っていたの、みいんな知ってるんだから。
そこまで言うと、太宰も理解できたらしい。一拍おいて、さっと頬に朱が走る。「なっ」パクパクと意味もなく動く口。色んなものがつっかえているのだろう。そのいくつかは名前にも予想がついた。でもそこには触れない。今必要なのはそんなのじゃない。今名前が触れたいのは、ただ。
「ねぇ太宰さん、わたくし、あなたが思っている以上にあなたを好いているんですよ」
膝に置かれた手に触れる。それはぴくりと反応したが、それ以上は沈黙を守った。だから名前は安心して彼の温もりを感受できた。
「じゃあ、」ようやっと口から出たのは蚊の鳴くような声だった。「じゃあ、今まで何してたって言うの」こんな時間まで、日付を跨ぐまで、ーー特別な日に自分を放り出してまで。糾弾に、名前は彼の手を握った。
「ーー特別だから」
「だからこそ、完璧に仕上げたかったんです」誕生日にはケーキが欠かせないでしょう?でも一から作るのって結構骨が折れて。失敗はできなかったし太宰さんにも皆にも隠しておきたかったから。だからこの時間しかなかったんです。
「わかってくれました?」
「……わからない」
頬を膨らませて太宰は言う。「だからって、俺を待たせるのはどうかと思う」不機嫌さを隠さないでいるのに、名前の手はほどかない。そういうところがまた、いとおしい。
「どうしたら許してくださるの」
「そんなの自分で考えてよ」
「でも志賀直哉に聞きに行くのはなしだからね」どうせケーキだってアイツに教わってたんでしょ。見抜かれた名前は身を縮めるしかない。でもだって、しようがないでしょう?この図書館に彼以上の料理人はいないのだから。
「せめて手がかりくらいはくださらないと……きっと一日かけても思いつかないわ」
「俺はそれでもいいよ、別に」
今度こそ優位に立てたと太宰は笑う。「一日ずうっと悩めばいいのさ」悠然と足を組み直し、ようやっと彼はカップに手を伸ばした。
「答えが出るまでここで待っててあげる」
まるで家主みたいなことを言う。ここは名前の部屋なのに。
でも名前にも不満はなかった。「ならずぅっとここにいてくださいね」彼の隣に座り直して、身を寄せる。「約束よ」肩に頬を埋めると、石鹸の匂いがした。あぁそうだ、お風呂に入らなきゃ。名前にはまだ朝を迎える用意がなんにもできていない。
「それじゃあしょうがないからアンタの世話は俺がしてあげるよ」
突然抱え上げられ、名前はびっくりする。咄嗟にきつくしがみつくと、太宰は声をたてて歓笑した。
「そうだそうだ、ずうっとそうしてろ」
ぐるりと視界が回転する。髪が幕のように広がる。名前にはもう、太宰しか目に入らなかった。そしてそれはきっと彼も同じだ。