司書と鏡花と物語だけの恋


 侵蝕者との戦いは心を摩耗させるーーようだ。ようだ、というのは伝え聞いたものしか名前にはないからである。本の中で戦えるのは文豪たちだけ。司書は特殊な事情がなければ有碍書に潜るのも憚られる。それは司書が本から受ける影響は文豪の比ではないためだ。作品や侵蝕度合いによりけりだが、長く留まることで気を違えたケースも過去にはあったらしい。何分何時間何日……実験は作品にも被験者にも左右されるため結論という結論はでなかった。
 だから、名前には彼らを真に理解できる日など来ない。それは傷ついた彼らを見ると殊更強く痛感させられる。
 表層が殺ぎ落とされ覗く深淵。怒り。悲しみ。嘆き。摩耗した彼らに共通するのは、負の側面が顕著になるということ。それを目の当たりにするのは正直堪えた。

「あぁ、ぼく、僕、は……」

 普段毅然としている人の見せるそれは、特に。

「鏡花さん……」

 名前はなんと声をかけたらいいのか悩んだ。傷ついた彼の姿を目にしたのはこれが初めてではない。けれど、ここまで深くーー朽ち木のようにくずおれてしまうのは見たことがなかった。

「……僕は先に行っているよ」

 鏡花と共に潜書していた秋声は溜め息混じりに言った。鏡花ほどではないにしろ、傷を負った箇所がーー特に太股に受けたそれがーー痛むらしく、ひどいしかめ面をしている。

「鏡花もこんなとこ僕らに見られたくないだろうし」

「そうだな」

 同意したのは彼らの師。紅葉は腹部を押さえながら、続けた。「鏡花のことは汝に任せたぞ」我らは一足先に休んでいる。なに、治療の心配は無用だ。この程度なら作り置いてくれた薬ですぐに治る。

「それよりも汝は鏡花の傍にいてやってくれ」

 弟子思いの紅葉はそう言って、秋声と共に去っていった。名前にはその背に「はい」と答えるほかない。だって彼らに言われずとも名前から願い出ていたに違いないのだから。
 これでこの部屋には鏡花と名前しかいなくなった。有碍書を隔離するための部屋。どこか陰鬱で影の満ちた室内。棚の落とす影。カーテンの落とす影。そして、人の落とす影。そここに影がある。そして影にはあやかしがつきものだ。
 だからーーだろうか。
 鏡花は焦点の合わぬ目で、それでもなにかをーーそう、なにかを見ていた。

「ここは……魔界なのでしょうか…………」

 幽鬼が見える、と鏡花は言う。そこにも、ここにも。鬼が、鬼神がいる、と。頭を押さえながら、うろうろとさ迷う目。名前は跪いた。「いいえ、いいえ、」放り出された方の手を取り、両の手で包み込む。

「ここに鬼はおりません」

「でもいるのです、黄昏が僕を、」

 呼んでいるのです。鏡花はくしゃりと顔を歪めた。泣き出しそうな、その一歩手前で堪えたような。そんな顔で、彼は名前にすがる。

「違うんです。僕は、僕が先生を冒涜するはずもない。敬愛しているのです。その文学も思想も技巧も。ただ、僕が、僕が、勝手に、違うものを汲み取ってしまっただけで」

 これでは申し訳が立たぬ。そう言った。師を愚弄することになるのが一等つらいのだ、と。

「なのにどうして僕は惹かれてしまのでしょう?」

 あやかしを描かずにはいられない。尾崎紅葉の目指した文学を愛しているのに、その技巧をもってまったく別の、それも旧時代的なものを求めてしまう。それが申し訳ないのだ。
 鏡花が言いたいのはそういうことだろう。頭のなかで整理しても、それでも文学を志すものでない名前には彼の苦悩がちっとも理解できない。心を重ねることはできても、それ以上は無理だ。

「紅葉先生は『よせ』とは言わないのでしょう?」

 ならばそれが答えではないのか。単純な名前はそう思ってしまう。師が許した、それでは駄目なのか。
 けれど鏡花は首を振る。ただそれだけの話ではないのだと。

「先生の許しはいいのです。それは、いいのです」

 問題はそこじゃないーーそう、真に根が張っているのは己ーー、泉鏡花自身に他ならない。

「僕は、僕が書きたいものがわからない。最初に求めたのは慈悲であった、そのはずなんです。いや。それは変わらない、変わるはずもない。僕は今でも、」

 信仰している。信仰しているのに、心にはあやかしがつきまとう。
 ーー今も。

「あなたの微笑が摩耶夫人のように映るのに、にも関わらず僕には、」

 鬼神のそれにも見えるのだ。それがとても、恐ろしい。
 鏡花は濡れた目で名前を見た。名前を、鬼を、あるいは母を。畏怖に、思慕に、執心に波立つ瞳で、名前を見る。深い湖の色をした明眸。長い睫毛が森のように影を差している。目元に、頬に、輪郭に。影が差す。名前の目にも、顔にも、体にも。静かな、けれど深い影が名前を呑む。
 衣擦れの音がする。髪が花のように広がる。吐息が頬にかかる。けれどそのどれも名前にはどうだってよかった。背中に感じる床の固さも冷たさも、どうだってよかった。
 自分を地面に縫い止めた男だけが名前の気がかりだった。

「これは夢なのでしょうか、それとも、」

 茫洋とした眼差し。声。考えるより早く名前は動いていた。「ゆめ、でしょう」彼の口に人差し指を押し当て、囁く。

「夢なのです。あなたも、そして、わたくしも」

 所詮は夢のまた夢なのだーーかつて誰かが言った言葉を名前は借りた。「夢、なのですよ」だからよいのだ。鬼だろうと神だろうと。そのどちらもが名前であっても。そのどちらもが名前でないにしても。本当は彼が答えにたどり着いているのだとしても。
 今このときは、すべて夢なのだから。

「僕は、」

 鏡花の指が名前の頬を這う。茎のように細く、けれど筋の通った指が。白い手袋に守られた指先が、迷いを含みつつも肌を滑る。

「……怖いのでしょうね」

 鏡花は、笑った。はらはらと泣き笑った。

「失うのが怖いから。だからあなたを鬼に、神にする。そうしてしまう。そうしてしまえばもうあなたは、」

 ここにはいないのだから。泉鏡花の作品のひとつになるだけなのだから。
 でも実際には名前はここにいる。鏡花の腕の中にいる。それは鬼でも神でもない、ただの人だから。いつなくなるとも知れぬ存在だから。

「……けれどここは夢です」

 夢なのですよ、とすがりつく。今度は名前が。鏡花の胸元を掴んだ。そうでなければ、もう二度と鏡花に触れられない。そう思った。今を逃したら、きっと。

「夢なのだから、なくすこともないのだから、よいじゃありませんか」

 浅ましいことだと心のうちでは思う。思うが、止められない。止まらない。だって、名前は彼の温もりを知らない。知らずに夢から覚めてしまうなんて。そんなの、悲しすぎる。
 名前の頬にはいつの間にかいく筋もの涙が流れていた。伝い落ち、鏡花の手袋を濡らしていくそれ。それでも鏡花は殻を脱がない。「名前、」その声には確かに色を感じるのに。何よりも柔らかな音をしているのに。それなのに、彼は。

「夢ですらあなたに触れられない僕を、あなたはどう思うのでしょうね」

 手袋越しに名前の唇をなぞって、やはり悲しげに眦を下げるばかりであった。