司書と犀星と恋するバースディ


 射るような真夏の日差し。傘越しにも肌が灼けつきそう。茹だるような熱気に、名前は足を速めた。
 帝國図書館には自然が満ちている。辺りは山々が連なり足元には草原が広がる。名前の生家とは真反対の環境。加工されてない地面を歩くのは未だに違和感がある。しかも路という路がないのだから自分で選ばなければならない。方向も定かでない草むらをあちらかしら、それともこちらかしらと考えながら進んでいく。頭にあるのはただ一人。
 その彼は拓けたところにいた。青々と茂った芝生の上。空を見上げ寝転がる姿。ミルクティの髪が風に遊ばれている。きらきら、きらきら。あんなに嫌だった日差しが彼に吸い込まれた瞬間宝石のような輝きを放つ。きらきら、きらきらと。

「あれ、名前じゃないか」

 気づかれてしまった。
 名前はふぅと息を吐いた。「こんにちは、犀星さん」先に声をかけようと思っていたのに。驚かせそこなったのが、すこし悔しい。

「どうした?散歩か?」

 犀星は名前の気なんて知らないからそんなことを聞いてくる。笑いながら身を起こし、名前をまっすぐに見つめて。それがまた輝くばかりで名前は溜め息を吐きたくなる。人の気も知らないで、そんな顔をして。
 「いいえ、」散歩ではありません。名前は歩を進める。あぁ、日差しが眩しい。いやになるほど、きれいだ。

「じゃあどうしたんだ?」

 犀星は小首を傾げる。その隣に思いきって腰を下ろした。差した日傘の分だけ距離をあけて。その影に隠れて。

「……あなたを探していたのです」

 眩しいから。あんまりにも眩しいから。名前にはこれが精一杯だった。犀星の首のあたりで目を泳がせるので、いっぱいだった。
 「俺を?」犀星はやっぱり笑う。「よく見つけられたな」手間かけさせて悪い、とも彼は言った。
 「いえ、」慌てて首を振ったあとで、名前は俯く。「そんなことは……」陽があかあかと燃える。光がゆらゆらと乱反射する。
 名前は一度目を閉じた。

「……犀星さんのいそうな場所はわかりますから」

 嘘だ。
 名前には犀星のことなんてちっともわからない。彼のことも、彼の考えていることも、ーー彼の想いも。名前には見えないことばかりだ。

「……そうか」

 犀星は破顔した。そうすると幼げな容姿がますます無邪気なものになる。
 その顔のまま彼は天を指した。「きれいな青だろ?」今日はすこぶる天気がいい。空は高く澄み渡り抜けるような青色をしている。谷間から眺める山々には樹木が覆い繁り涼やかな甘さを放っている。遠くで川が岩を削る音もする。岩を削り谷間を抜け海へと流れ至る音。そちらに耳をすますと、葉の打ち合う音や鷲が滑空する音も耳に入ってくる。

「だからぼうっと空を眺めてたんだ」

 犀星はそのすべてを受け入れていた。目を細め、頬を緩め。いとおしそうに、見ていた。

「ここはいいな。自然が溢れてる」

 どこか遠くを見る目。どこか、遠く。ーーそれってどこを?
 名前は目をそらした。気づかれないよう、睫毛を伏せた。スカートに影が落ちる。暁闇。胸にはいくつかの言葉があった。でもそのいずれもがささくれだった波に呑まれていった。

「……そうですわね、このあたりは以前あった自然回帰運動の名残が色濃く残っていますから」

 代わりに口から出たのはこの国の記録。文明の発展とそこに起因する諸問題。過去から幾度となく繰り返されたもの。それに対する答えも、また。
 名前の生まれるより前、文明を捨て自然に還ろうという動きがあった。もちろん名前が見たことはない。教本に載っていた。それだけだ。だからその動きもその結末も名前にとっては記録でしかない。記録に思いはない。なにも浮かばない。

「自然回帰か……」

 だから、犀星の言葉に籠められた感情もわからない。理解が及ばない。憂慮、郷愁、寂寥。そんなものだろうかと検討はつけれても、結局名前にとってそれは知識であり推測でしかないのだ。

「きっと名前の住んでたとこは俺の知ってるのよりずっと都会なんだろうな」

「そう……でしょうね」

 きっと犀星の思っているよりずっと違う。彼の知るものと名前の知るもの。同じ言葉なのにそこには大きな隔たりがある。
 それは重々承知している。しているのに、認めたくない。だから口を濁してしまった。はっきりしない物言い。「名前?」いぶかしむ声。視線を感じて、曖昧に笑む。いいえ、なんでも。幾度も飲み干した感情が喉の奥で積み重なる。心が、心臓が、喉が。押し止めようと強ばるけれど、今にも決壊してしまいそうだ。

「あの、」

 唇が動く。意図しないままに。堰を越えようとする。
 でもそれより早く、草が掻き分けられる音がした。背後からのそれに、犀星はいち早く反応した。しかし正体を知るやいなや険しい顔はゆるゆると崩れていった。

「おぉ、猫だ」

 分けいってきたのは小さな獣。そう、名前にとったらただの獣だ。死を知らない獣だ。そこに序列はない。好きとか嫌いとかそういう次元の話ではないのだ。
 でも犀星は違う。彼は慈しむ人だ。今も名前にするよりずっと柔らかな声で小動物に呼びかけている。その音に警戒心を解いたのか。獣は恐る恐るといった体で歩を進めてきた。そして図々しくも名前と犀星の間に入り込んだ。名前がわざわざ距離をあけたっていうのに。本当は名前だって隙間などなくしてしまいたいのに。

「ここにはよく猫が来るよな」

 犀星がこれっぽっちも気にした様子がないのがまた悲しい。いや、名前の料簡が狭いのだ。狭量なのだ。彼の猫への愛情を咎める権利なんて名前にはない。どころか、彼の愛情深いところにこそ名前は好意を抱いている。だからこれは歓迎してしかるべき状況だ。なのに、なのに。
 「よしよし」彼の手が優しく撫で擦っているのを見ると、どうしようもない心地になってしまう。これは狭量というべきほかない。
 彼といると、ほとほと自分が嫌になる。でも望んだのが自分であるのも事実だ。名前は唇を噛んだ。犀星は猫にかかりきりで気づいていない。ーーあぁ、よかった。彼に愛想をつかされるのが名前にとったらいっとうつらい。だから素知らぬ顔で名前は口を開いた。

「図書館にはネコさんが常駐しておりますから」

「あー……いやでもあのネコとこの猫は違うだろう」

 犀星は顔をしかめる。「あのネコには可愛いげがない」ころころと変わる表情に、名前のまなじりは下がった。「たしかに」姿形は猫そのものなのに中身はいやに人間らしい。

「でもあの方にも可愛らしいところはあるんですよ」

「そうか……?」

「ええ、あなたに撫でてもらえないとしょげ返っておりました」

 思い出すと思わず笑みがこぼれる。普段は猫らしからぬ言動の癖に、と名前は驚いたものだ。犀星も同じなのか、名前の言葉に目を見開いた。でもそのあとでそわそわとそらされたものだから、どうしたのかしらと不安になった。どうしたのかしらーーわたくし、何か変なことを言ったのかしら?それとも、それともーー想像は悪い方に向かっていく。
 「犀星さん?」そろそろと窺うと、彼は肩を揺らした。「あぁ、いや、」瞬く目。赤らんだ頬。何度か躊躇いに震えた唇が、すうっと息を吸う。

「……名前の方がよほど、猫らしいと」

 思ったのだ、と犀星は言う。
 最初、言葉の意味が名前にはわからなかった。いや、意味はわかる。たとえそれがラテン語だろうがギリシャ語だろうが。でも理解が追いつかなかった。名前。猫。その二つが似ていると、犀星は言ったのか。ーー本当に?
 名前は彼をまじまじと見た。意図していたわけではない。自然とそうしてしまった。だって、青天の霹靂とはこのことだろう。あるいは驚天動地といったところか。
 すると犀星の方はもうたまらないという顔で「あまり見ないでくれ」と目を背けてしまった。その声は消え入りそうなほどで。いっそ哀れを呼ぶようだった。
 そのさまを見ていると、名前でももしかしてと思ってしまう。ずいぶん都合のいい想像だ。彼の言葉はそこまでつまびらかにはされていない。ただの名前の想像。でも、もしかすると、もしかするとーー。

「……ね、犀星さん」

 名前は膝を抱えた。本当ならなんでもないような顔で言ってしまえばよかったのだけれど、名前の心臓はそう強くはできていない。
 「そう、おっしゃるのでしたら」今だってどきどきと脈打って頭が痛くなりそうなくらいだ。それを堪えるように膝を抱え、ぎゅうっと体ごと抱き締めた。

「もうすこし、わたくしにも時間をわけてくださらない……?」

 言ってしまった。言ってしまった。
 これで自分の勘違いだったらどうしよう。勘違いだったらーーすごく恥ずかしい。恥ずかしいだけじゃない。優しい彼は絶対に困ってしまう。期待させて悪かったと、そう頭を下げるに違いない。そんなの名前に耐えられるだろうか!

「……わるい」

 俯いていた名前に彼の顔は見えない。真っ暗闇。その中で反響する声。対抗する心臓。鼓動が、うるさい。けれど続く言葉に名前はびっくりした。

「その……寂しがらせたか」

「いえ!」

 名前は顔も声も上げた。それからはっと口を押さえる。「そうではありません……」彼のせいではないのだ。彼に悪いところなんてひとつもないのだ。悪いのは全部名前。名前がいけない。醜いところもそれを隠す意地汚さも。なのに美しいものを求めてしまう愚かさときたら!
 けれど犀星の顔は晴れない。「そう、だな……」思い悩む目。うろうろとさ迷う視線。

「ええっと、じゃあ……いや、じゃあというのは失礼だな、そうじゃない、そうじゃなくてて」

 そこで彼はひとつ咳払いをした。さほど大きなものではなかったのに、名前の心臓はひきつく。

「これからの時間は俺が貰ってもいいか……?」

 どうだろうか、と自信なさげに犀星は言う。
 それなのに名前の気はそこまで回らない。自分のことで手一杯だった。いつもならここでこんな顔をさせてしまった自分を責めるところなのに、あるいはこれが現実か疑うところなのに。「ええ、ええ、」今は歓喜に声を震わすことしかできなかった。

「さしあげます。わたくしの時間ならいくらだって」

 だから犀星さん、あなたの時間もわたくしにくださいな。

「今日は特別な日にいたしますから」

 さぁ図書館に帰ろう。そこでは師も友も彼の帰りを待っている。名前の作ったケーキといくつかの贈り物を添えて。今か今かと犀星を待っている。
 彼は驚くだろうか。喜んでくれるだろうか。これからのことを思い浮かべながら、名前は犀星に手を差し伸べた。