司書と乱歩とアナベル・リー
朝、中庭で蝉を見た。それはブンと飛んでどこかに行った。
夕刻、同じ場所で蝉を見た。それは地面に転がって足をバタつかせていた。朝見たのと同じものか、あるいは全く異なるものなのか。名前に判ずることはできない。できないが、なぜだか強く胸をつかれた。苦しげにもがく、蝉の姿が。
「おや、我が愛しのアナベル・リー」
こんなところで奇遇ですねーーそう言った乱歩は夜半だというのにいつものスーツを着たままだった。宵闇のなかに浮かぶ白。異端者を自称する彼らしい。
が、「あなたが中庭に出ているなんて」珍しい、と名前は驚く。それもこんな夜更けに。一帯が静寂に満ちたときに。喧騒を好む彼らしくないと名前は思ったのだ。
「ワタクシとてたまには気まぐれを起こしますよ」
ベンチに座した彼はにこやかに笑う。その隣に腰掛けながら、しかし名前は訝しげな目を向けた。怪しんでいる、そうありありと書かれた目で。それを見てとった乱歩は笑みの形を変えた。
「これといった理由があるわけではないのは本当ですよ」
そうは言うが、けれどそれ以上は語らなかった。はぐらかされたのだーーとはいえそれを指摘することはなかった。そうでしたの。名前は納得した風に頷いた。けれど意識は別のところにあった。別のところーー散り散りになった亡骸の方に。
「どうかしましたか?」
「……いえ、」
逆に問われ、名前は目を伏せた。無意識のうちに引き寄せたショール。寒くもないのに、どうしてだろう。怖気が背中を走る。身体を這う。首元にまとわりつく。
見知った景色が別のものに見えた。覆い繁る草木は迷いの森のようで。月を浮かべた水面は底なし沼のようで。ぬかるんだ風は幽鬼の手のようで。名前はぶるりと身を震わせた。どうしましたか、そう問うた人すら不確かに思える。あるいは、と。
「あなたはーー」
だから名前はすがるように見上げた。唇を湿らせ、すうっと息を吸った。「なぜ、呼んだの」わたくしを、アナベル・リーと。名前ではなく、なぜその名を。
「厭でしたか」
「……いいえ、」
そうではない。そうではないのだ。名前はかぶりを振った。「ただ、」不吉だと。そう感じてしまったというだけで。
「不吉」
確かにそうですね、と乱歩は薄く笑った。「アナベル・リー、ポーの愛した女性」そして、
「ーー永遠の眠りについた魂」
あなたからは死のにおいがします。乱歩の手が名前の頬を撫でる。「冷たく、凍えた、」冬の朝のような気配。だからなのか、手袋越しだというのに彼の手が名前には熱く思えた。
「……1度生死をさ迷った、そのせいでしょうか」
名前にも自覚はある。自分が死に近しいところに立っているという自覚。足下に広がる奈落は影のようにつきまとう。ひたひたと音もなく。ただじいっと待っている。口を開けて名前を待っている。
「わたくしは世界の向こう側に触れたのです」
死という概念。本来語りえない世界に触れた。その感覚だけは今も残っている。思い出すだけで身の内から、奥底から湧き出る甘やかな泉。救済の音。安息の風。この世の果ての果て。そう、あの時、確かに。「世界は拡張しようとしていた」だが名前は失敗した。魂を新たな次元に引き上げる実験。それはいくつかの犠牲を払い終止符を打たれた。名前自身もぎりぎりのところで還ってきたのだーー同じ研究者である祖父からそう聞かされたのは目覚めて間もなくのベッドの上だった。ほんの2年ほど前のことだ。それ以来、広がる闇が色濃くなった。
「語り得ぬものには沈黙しておくべきだったのでしょう」
ここまで語って、名前は自嘲ぎみに笑った。先ほどあった熱は意識が今にかえると同時に急速に冷えていった。芯にあったはずの泉は枯れはて酒の一滴も見つからない。世界の限界は思考の限界のまま。可能性の世界はあくまで可能性のまま。論理空間になど手を伸ばすべきではなかったのだ。
「ですがそれがヒトの性というものでしょう」
否が応でも可能性を追い求めるものです。
そうは言っても乱歩の意識は定着していた。しずかな、とてもしずかなーー凪いだ月のようなーーそんな目で名前を見下ろしている。空にかかっている月といったら、口をひしゃげさせてにやにや笑っているというのに。乱歩の目はそんなのよりずっと自然にそこにあった。
「そう、ですわね。……ええ、そうなのでしょう」
ーーでも。
「頭から、離れないのです」
名前は上半身を折り曲げた。ぐにゃりと背骨の抜けた体が膝の上に投げ出される。広がる闇夜。一滴の光もない世界。なのに、響く。じぃじぃと羽が鳴く。きぃきぃと四肢が喘ぐ。そのたびにばらばら、ばらばらと。折れて落ちて割れて砕けて。地面に散らばって、なのになおじぃじぃとないている。名前の耳元で。頭で。瞼で。
音が、鳴りやまない。
「蝉の、声が」
絶え間なく響いている。羽ばたき、力尽き、風に崩れていき、また羽ばたく。生と死の循環。一つの輪を延々と再生しているように、名前の頭でその映像は流れ続けていた。目を閉じても、開けても。視界の隅で蝉が生まれ、死ぬ。羽は散り足はもげ、引き裂かれた体は無情にも地面に転がされるまま。その虚ろなる目から逸らせない。どうあっても名前はそれを見ている。見続けていると、次第に意識が溶けていく。黒々とした目。光のない目。吸い寄せられ、気づけば名前は空を見ている。身を起こそうとしても体はきぃきぃと軋むばかり。声を上げようとしてもじぃじぃとひきつるばかり。きぃきぃじぃじぃーーばらばらばら。そして、そして。
「また繰り返すのです、わたくしも、蝉も」
名前は体を折り曲げたまま耳をふさいでいた。そうしても無意味なことは知っていたが、心理的にそうせざるを得なかった。ぐしゃり。汗の滲んだ髪を押し潰す。
セミ、と乱歩は復唱した。セミ、ですか。「なるほど」涼やかな声音が名前の頭を通り抜ける。
「蝉はもののあはれの象徴、そして空蝉はヒト、現を表す語……」
あなたは影響を受けやすい質ですからーー。
その声と共に、名前の体が温かなものに包まれた。かかる重みに思わず顔をあげる。すると肩から落ちかけるものがあって、慌ててそれを掴んだ。それをーー乱歩の上着を。
「これ、は」なぜーー?問うというより戸惑いを多分に含んだ音。ぎこちなく首を傾げる名前に、乱歩はにこりと笑った。口元に当てられた人差し指。しぃ、と囁く唇。
「一人でいるから余計なことを考えてしまうのですよ」
「そう、かもしれませんが」
今だって、一人で寝つけなくて風に当たりにきたのだ。余計なことを考えてしまう、その通りだ。
「でも誰かのーーあなたのご迷惑になるつもりは」
既に迷惑をかけている……という点には目を瞑るとしても、しかし元よりそのつもりだったと思われては心外だ。邪な考えなどなかった、と断言はできないが。乱歩に話してしまったのは自分でも想定外だった。
だからこれ以上はない、と名前は制したつもりだった。
のだけれど。
「迷惑?なんの話をしているのやら」
乱歩は飄々とわらう、わらう。「ワタクシはね、新しいトリックについて読者の意見を聞きたいと思っただけです」軽やかなウィンク。モノクルがきらりと光る。
「さてさて名前、夜は長い。そして長い夜に一人でいるのは寂しい。そして今ここに寂しい一人と一人が偶然にも出会ってしまった。これはもう付き合ってもらう他ないでしょう?」
一足早くベンチをたった乱歩に手を差し出される。「さぁ、」おずおずと重ねると、ぐいと引き上げられた。そして名前が驚きの声を上げる間もなく、体が浮遊する。世界が回る。ぐるぐるぐるぐる。これでは高さも距離も景色も境界もわかったものじゃない。世界の限界が名前の目の中ではぐちゃぐちゃにかき混ぜられてしまった。
「さぁ行きましょうアナベル・リー!引き裂くことのできぬ魂よ!」
高らかな声が闇を払う。静寂を裂く。世界が、塗り替えられていく。
名前はぎゅっと乱歩の肩にしがみついた。そうでないとこれこそ幻だとーーこれから覚めるのが現だとーーそう勘違いしてしまいそうだった。もしもそうだったらどんなにか悲しいだろうとも思った。
「でも、あなたは離さないでいてくれるのね」
零れた言葉に返事はない。でも笑みで返された。「その通りですよ、アナベル・リー」と。「ワタクシたちの魂を裂くことはどんな天使にもどんな悪魔にもできやしないのだから」と、彼の目は雄弁に語った。
だから、心配することなんてないーー。
名前はほうと息をついた。アナベル・リー。その響きがなぜか幸福なもののように思えた。不吉だと思ったのが嘘のように。ひどく幸福で喜びに満ちた響きをしていたのだ。