司書と武者と愛について

 それはまさに天啓と呼ぶ他ないでしょう。
 武者小路実篤は言った。「神が耳元で囁いたのです」ーー僕とあなたは愛し合うべきなのだ、と。
 けれど名前は首を振った。ーーいいえ、実篤さん。紅茶の水面に映る自分。固い微笑。

「それはまやかしでしょう」

 顔を上げ、熱っぽい眼を見返す。
 ーーと。

「…………っ」

 ぐらり。
 視界が歪む。目がすぼまる。伝播する熱。落ちる錯覚。あぁ、ダメだ。名前は掌に爪を立てた。噛んだ唇が痛い。痛い、けれど。
 このまま倒れてしまうのが一番いけない。

「名前?」

 だから名前はなんでもないと答えた。答えるしかなかった。心配だと書かれた顔に、慈しむ瞳に、目を伏せることしかできなかった。

「……名前はまやかしと言うけれど。僕は信じていますから。この声を、そしてなにより僕自身を」

 だって、目の前に座る彼はあまりに真っ直ぐすぎて。これ以上彼を否定するのも拒絶するのも、名前の心が先に壊れてしまう。罪悪感。ただそれだけで。

「……わたくしには理解できません」

 項垂れた頬に髪が落ちてくる。あぁ、鬱陶しい。でもそれにすら実篤は手を伸ばす。柔らかく触れて、優しく耳にかけて。

「ならばいつの日か理解していただけるよう努力しますよ」

 抜けるような笑顔。なんて眩しいのだろう。目を細める名前の脇で、カランと音を立てて氷が沈んだ。カラン、カラン、と。
 名前は目を閉じた。

「ーー愛って本当はなんなのかしら」

 戸惑いの声が聞こえる。「愛、ですか」開けた世界で実篤は首を捻る。「難しい質問ですね……」真剣な表情で悩むこと数分。

「共に歩みたいと願うこと、でしょうか」

 どこか照れ臭そうに笑いながら。実篤は言った。「それが一番の望みなんです」その言葉に胸が詰まる。共に歩む。それがいかに困難なことか。思うだけで名前の爪は白くなる。

「……それは突然やってくるものなのかしら」

「そう……ですね、ええ、突然だったかと」

「わたしが鼻をつまんでいるときでも夜明けにドアをノックするかしら」

「恋心とは時も場所も選ばないものですよ」

「それじゃあバスの中でわたしの足を踏みつけるかしら」

「ええ、時には乱暴さも含みますね」

「それじゃあ、……それじゃあ、お天気の変わり目に来るのかしら。礼儀ただしくするかしら。それとも乱暴者かしら」

 ーーわたしの人生を変えてくれるかしら?

「……名前、」

 手が握られる。膝の上で冷えきっていた手が抱き締められる。温かい。とても、とても。

「なら試してみればいいんですよ」

 温かな手の持ち主はにこりと笑った。





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オーデンの愛って本当はより。
これもそのうちちゃんとまとめてifで書きます。