結城夏野と徹の幼馴染み


 村では不必要なことまで耳に入ってくる。たとえば武藤徹の幼馴染みの女のこと。彼女の母親が村に馴染めず出ていったこと。そしてーー彼女が都会に住む母親に会いたがっていること。色んなことが田舎道を歩いているだけで聞こえてきた。夏野は聞きたくもないのに。好き勝手喋って、挙げ句の果てに夏野の思考を踏み荒らしていく。そういうところが嫌なのだ。そうだ、こんなとこさっさと出て行ってやる。都会の大学に入って、そうすればもうーー、
 そこまで考えて、夏野ははたと気づいた。彼女も同じなのかと。同じように村を厭っているのかと。
 別に仲間が欲しかったわけじゃない。連帯感とか、それこそバカバカしい。でも彼女を気にするようになった切欠はここだったように思う。彼女ーー名字名前という人間が意識の隅に引っ掛かるようになったのは。
 夏のある日だった。溝辺町からの帰り。同じバスに乗り合わせた。偶然だった。夏野は参考書を買いにいった帰りで、名前の手にはCDショップの袋があった。どちらも外場にはないものだ。名前をみとめた夏野と夏野をみとめた名前。二人の間に沈黙が落ちた。

「……こんにちは」

 そう言ったきり。名前はどこに座るか決めかねている様子だった。特別親しいとはいえない二人。武藤徹を挟んで繋がっている関係。同じ村に住む顔見知り。嫌いでもなければ好きというほどでもない。そんな微妙な距離。
 約束したわけでもないのだし、仲良く隣り合う必要もない。けれど挨拶をした手前、違う席を選ぶのもなんだかわざとらしい。避けてますと口外しているようなものだ。
 ……こう考えているのだろうことが夏野には手に取るようにわかった。夏野にだってその気まずさくらい覚えがある。でもだからといって自分から誘うのもできないのだが。
 結局、名前は夏野の隣を選んだ。何も聞かず、何も言わず。なんでもないような顔で座ると、頬杖をついて夏野とは反対側の窓を眺め始めた。それを夏野は視界の隅で捉えた。夏野に見えるのは彼女の白い輪郭と影を落とす黒髪だけだった。
 バスはガタンと揺れたあとで動き出した。夏野もまた窓の外を見た。だって、それ以外どうすることもなかった。
 流れていく景色の速さは変わらないのに、流れていく時間だけがひどくゆるやかだった。冷房のかかりきっていない車内はむんとしていた。うだる熱で世界が滲むようだ。でも隣はぴくりともしなかった。死んでるみたいだなと夏野は思った。いや、死に向かっているというべきか。取り囲む山が見えてきた。夏野は自分もまた沈んでいくのがわかった。
 バスが止まる。音がかえる。名前は席をたった。夏野も無言であとに続いた。二人を下ろすとバスはまた砂利道を走り出した。残されたのは蝉の声。うっとうしい合唱が四方八方、上からも下からも沸き上がってくる。山と同じように、取り囲んで、取り込もうとしてくる。そういうのがまた夏野には腹立たしい。イライラする。させられる。いつもの集会を開いている老人たちの目も声も気配も。何もかもが嫌だった。
 それをかき消すかのように名前は口を開いた。「暑いね」わかりきったことを言った。夏野は「そうだな」と返した。でも名前には答えなんてどうだってよかったらしい。興味なさげに結わいた毛先を指先でいじった。「早く帰ろう」これにも夏野は同じ言葉を返した。夏野も、彼女が何を言おうとどうだってよかった。雑音が遠退きさえすれば、それで。

「不便だよね」

 名前の目が夏野の手を、そこに下げられた本屋の袋を指す。「……アンタも」夏野も同じようにした。同じように、それ以上は聞かなかったし話さなかった。彼女が何を買ったのか。自分が何を買ったのか。それは隔たりの証で、二人は人ひとり分の距離を保ったまま並んで歩いた。
 時折村人と遭遇した。彼らは畑だったり軒先だったりにいた。場所は違っていたけれど、でも結局は同じだった。「あら、名字さんとこの……」「それから工房の……」気さくな顔で挨拶してきたかと思えばすぐに密やかな声が交わされる。「相変わらず愛想のない」「都会の血ってやつかねえ」「あぁだから工房のと一緒に」「なんでも村から出たいって話で」「でも名字さんは許さないんでしょ」ーーーー
 ……くだらない。なにもかも、くだらない。
 そんなどうだっていい話が聞こえてくるたびに名前はぽつりぽつりと言葉をこぼした。その顔に、声に色はない。無表情。無感動。繕っている様子はないのにすべてが作り物じみていた。

「……アンタもこの村が嫌いなのか」

 気づくと夏野は口走っていた。夏野から話をしたのはこれがはじめてだった。はじめてには相応しくない問いだったろう。けれど名前はすこし驚きを目で表現しただけで、それ以上は見せなかった。ただ夏野の問いに肯定もしなかったが。

「それってすごく抽象的じゃない?」

 首をかしげ、また毛先をくるくる回す名前。「村、って言われても」ピンとこないのだと彼女は言う。

「結城くんが言ってるのはこの土地のこと?慣習のこと?それとも、人間のこと?」

「……全部だ」

 忌々しい、と舌を打つ。不便な土地も横並びを求める慣習も噂話ばかりの村人も。何もかもが嫌だった。
 「一理ある」名前は口角だけで笑った。

「でも私はここで育ったから……愛着はあるよ」

「……ふぅん」

 ガッカリした。そう思った自分に、夏野は驚いた。期待などしていなかったのに。そう考え、それこそが答えだと愕然とした。最悪な気分だった。
 「でも、」それを置き去りにして名前は言葉を続ける。

「憎んでもいるの」

 一瞬、彼女が何を言ったのかわからなかった。夏野の足が止まる。蝉の鳴き声がする。汗が背中を伝う。風が、二人の間を吹き抜ける。
 名前は夏野を見上げている。黒い瞳。夜を掬いとった色。でも不思議と嫌な感じはしなかった。ただ穏やかで、凪いでいた。

「結城くんも知ってるでしょ」

 母のこと、と名前は唇だけで綴る。夏野は素直に頷いた。聞いたよ、誰だか知らないけど。その答えは名前の想定の範囲内だったから彼女は「そう」とだけ言った。「じゃあ察しがつくんじゃないかな」他人事みたいに名前は遠くを見やった。

「母は村に堪えられなかった。村の慣習も祖父母との折り合いの悪さも、ぜんぶ。だから家を出た。私を置いて」

 だからって恨んではいないんだけど。その言葉が真実なのはなんとなく伝わってくる。名前はまた手持ち無沙汰に髪を弄りながら、「嫌ったのは祖父母の方」と語った。その顔にはやっぱり色がない。

「母からの手紙がずっときていたらしいけど。でも私は中学に入るまで知らなくて、偶然届いた手紙を祖母が破り捨てたのを見て、そこで初めて知ったの」

 でもだからって嫌いにはなれないんだ、と名前は歩き出す。夏野は一歩遅れてそれに続く。平坦な彼女の声が風に乗って流れてきた。

「これまで育ててくれたこと、愛してくれたこと。感謝してるし私もあの人たちを愛してるんだと思う。でも、やっぱり」

「憎らしいんだな」

「……うん」

 名前は振り向いた。その顔には困ったような表情が乗っていた。

「だから結城くんの質問には答えられない。私にもよくわからないし」

「……別に、ちょっと気になっただけだし」

 夏野の方が決まり悪くて頭を掻いた。「いいの、そんなことおれに話して」たいして仲良くもない。友達でもないただの知り合い。曖昧な関係の相手に話すような内容じゃなかったろう。
 けれど名前はあっけらかんと言い放つ。

「どうせそのうち耳に入るから」

 確かにそうだな、と夏野は内心思った。これまでの短い経験からでも容易に想像がつく。夏野がいくら耳を塞いだって彼らは構いもしない。
 この日はそれで別れた。夏野にとって収穫だったのは二つ年上の彼女がそれなりにーー武藤徹よりはずっとーー勉強熱心だということだ。おまけに彼女も大学は都内を目指すというのだからこれは素直に嬉しいことだ。

「結城くんに幻滅されないようにしておくから」

 じゃあね、と名前は道の先に消えていった。アメリカのロックバンドのCDをぶら下げて。
 夏野は英語の参考書が入った袋を抱え直して家路を急いだ。蝉の声は相変わらず騒がしいが、先程までより静まったようだった。




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10/10
DCが落ち着いたら漫画沿いで書きたい。恋愛面は夏野落ち、物語的には敏夫落ちです予定では。