一人でいるといやに針の音が耳につく。カチカチ。等間隔で響くそれ。等しく刻んでいるはずなのに、今の名前にはずいぶんと進みが遅く感じられた。何かに導かれるように本から顔をあげてみてもちっとも進んじゃいない。これがあと2倍も3倍も続くのかと思うと目が回りそうだ。そのくらい時間が停滞していた。
だから、微かな足音にも名前の耳は敏感に反応した。動物とおんなじ構造をしていたらピンと立ったに違いない。
「おまたせ、名前」
ドアを開けて入ってきたのは想像通りの人物。「透!」名前はパッと立ち上がった。
「心配した、あんまりに遅いから」
外では夜の帷がおりている。透がホテルを出たのが昼前。ここから花見会場までいくらかかかるとはいえ、こんな時間になるとは思っていなかった。だから心配した。なにかトラブルに見舞われたんじゃないか、と。
駆け寄った名前に、透は微笑んだ。「ごめんね」言いながら、名前の両手をとる。柔らかな目。暖かな日差し。
「ちょっと事件があって」
ーー事件。その単語に名前の顔は曇る。なのに透は笑みを深めた。「大丈夫だよ」安心させるように手の甲が撫でられる。それでも陰りは消えなかったが「あとで話すから」と言われてはそれ以上追及はできない。
渋々頷きながらも「ねぇ、本当にーー」大丈夫だったの?そう聞こうとして、「……コホン、」咳払いに遮られた。
「仲がいいのはたいへん結構……だけどわたしのこと忘れないでほしいわね」
これじゃあ自分の部屋にも入れないじゃない。バーボンの後ろから現れたのは、呆れたように腕を組んだベルモットだ。
「話すのはここを出てからにしてくれない?わたし、疲れたのよ」
悩ましげな溜め息。家主(といってもホテルだが)にこう言われてはしようがない。
「じゃあね、名前」
ーー今度は邪魔者抜きで会いましょう?
ベルモットに追い出され、二人はホテルを後にした。
「待たせて悪かったね」
すっかり暗くなった帰り道を車で走り抜けながら、透はもう一度謝った。
「一人で暇じゃなかった?」
「……本を読んでたから、へいき」
嘘だ。少しだけ、嘘をついた。暇ではなかった。暇ではなかったけれど、でも充実もしていなかった。ずぅっと気を揉んでいた。でもそれを正直に言うのは気が引けたからーー心配しているなんて彼に対する侮辱のようでーーだから嘘をついてしまった。
でも本を読んでいたのも事実だ。透の貸してくれた本。名前はそれの入った鞄を指し示した。
「まだ読み終わってないけどね」
だって気もそぞろで集中なんかできなかった。いや集中してたって今日中には読み終わらなかったろう。だって透の本は名前の手に余る厚さなのだから!
そんな名前の事情などいざ知らず。透は無邪気に聞いてくる。「どう?犯人はわかった?」と。
「…………」
名前は一度口をつぐんだ。
それもまだ、だけど。でも、
「家政婦が怪しいと思うわ」
「ホォー……」
その理由は?問う瞳に悪戯な光が瞬いている。それは暗がりでも煌々と照っていて、名前は目をそらした。
「……カンよ」
きっと透はわかってた。だって柔らかな目が愉しげに細められたから。どんな映画もドラマも小説も名前にトリックが掴めた試しなどない。だって名前は探偵じゃない。透とは違う。なのに。
「でも探偵には勘も大事だよ」
……褒められて悪い気はしない。
「……ありがとう」
けれど複雑な気持ちだ。探偵だなんて。叶わぬ夢を見せるのはやめてほしい。名前は下唇をつきだした。
「それより、事件って」
何があったのか。ずっと気になっていたことをようよう口にする。と、透の笑みが変わった。何かを思い出すように馳せる目。そんなに面白いことがあったのかしら、と名前は首を捻る。
その思いを見透かして「ただいい情報が手に入ったってだけさ」と透は否定する。
「事件自体は特段難しいものじゃなかった」
「そう……」
透が言うのだからそうなのだろう。これで事件に対する興味はなくなった。きれいさっぱり霧散した。しかし代わりに頭を占めるものが現れた。
「面白い情報……」
それで、こんなに楽しそうな顔をするなんて。いったいどんな内容なのか。
「まぁそれだけじゃないけどね……」
意味深な言葉にいぶかしむ。と、すぐに答えをくれた。
「ちょっとした罠を仕掛けたんだ」
江戸川少年に、と透は言う。
「ベルモットに知れたらお冠だろうなぁ」
くすくすと笑っているが、ベルモットの不興を買うかもしれない状況は普通なら笑い事ではない。ボスのお気に入り、魔女のベルモット。普通ならーーでも透は普通じゃない。彼は特別だ。ベルモットにもなにやら対抗策があるようだし。というか、彼女の弱みなんて知っているのはバーボンくらいなものだろう。
「ずいぶん買っているのね」
とはいえ危険を犯してまでそんなことをするなんて。確かに彼には不審な点が多々見受けられる。でも透がそこまでする価値があるのだろうか。いや、透の考えたことだ。名前が口を出す筋合いはないし間違いなどないだろう。でも、面白くない。ーー面白くない?
「嫉妬してくれるのかい」
「…………」
嫉妬、なのだろうか。相手は男で、それも子供なのに。
あぁ、でも。
「そう、なのかもしれない」
悔しいという感情が一番近い。となれば、これは。
「そう……」
透は笑みをこぼす。嬉しいなーーそう、彼は言う。
「嬉しい?」
透はそれ以上口にしない。ただ笑って、「さっきまでよりずっと楽しくなったよ」とだけ言った。