西施の集い


 作戦決行日。手配されたホテルの一室で、名前はベルモットと再会した。いや、再会というほど長いこと会っていなかったわけではない。けれど随分と久しぶりな感じがする。
 それはベルモットも同じなようで、「会いたかったわ」と目を細めた。

「心配したのよ、あんまりに酷い怪我だったから」

 今では傷ひとつ残っていない名前の頬。それに彼女は優しく触れた。優しく、慈しむように。母のような柔らかさで。「よかった、痕にならなくて」それは到底、魔女と呼ばれる女性には見えなかった。

「へえ、あなたにも人間らしい感性があったんですね」

 そんな和やかな空気に、透は茶々をいれた。途端、ベルモットの顔がきゅうっと険しくなる。「バーボン……」睨まれても、透は気にしない。暖簾に腕押し。糠に釘。「やだな、怖い顔しないでくださいよ」へらりと笑って、両手を挙げた。

「水を差したのは謝りますから……」

「謝るよりも一層の誠意を見せてほしいものね」

「ほう、誠意とは?」

「今後一切私と名前の仲を邪魔しない、とかはどうかしら」

「困ったな……それはできかねます。なんせ名前の飼い主は僕ですから」

 バチバチバチ。飛び散る火花。笑ってるのに青筋が浮かぶ顔。二人に前後を挟まれた名前はおろおろと狼狽えることしかできない。昔々、とある美人が病に苦しんでいたとき、その姿すら美しいと人々に真似されたというーーそんな話が名前の頭を過った。まったく、現状とは関係のない話であるが。だがしかし、美人とはどのような表情でも美しいものだ、というのは共通している。バーボンとベルモット。方向性が異なるとはいえ、その美しさに嘘はない。
 などと思考を放棄している間に、ベルモットの方が勝負を投げた。「……もういいわ」付き合ってられない、そんな風に。やれやれ、疲れたわ。額に手をやって、軽く頭を振る。ばさり、豊かな金糸が宙を叩いた。

「名前の怪我のことーーまだ話すつもりはないのよね」

「ええ、変わりないですよ」

 魔女の鋭い眼光にぴくりとも動じず、むしろ笑い返すーーだけでなく、透は名前の肩を後ろから抱いた。「わっ」突然のことに、名前はびっくりして声を上げた。振り仰ぐと、透の蒼い目が空のように広がってるのが見える。冷たく凪いでいる瞳。まるで冬の朝みたいに凍える炎。
 ゾクリ、とした。

「だってこれは僕の案件ですから……誰に譲るつもりもありません」

 食い込む指先。掴まれた肩が少しだけ痛い。けれど嫌ではなかった。ただ、気圧された。殺意があるわけでもない透の目に。その痛みにも似た鋭さに。孕む熱量に。気圧されたのだ。
 それはベルモットも同じで。「……そ」と素っ気なく返しながらも、一応は引き下がる姿勢を見せてくれた。
 それでも釘を刺すのは忘れない。

「言っておくけど納得したわけじゃないわ。ただあなたが折れそうにないから譲歩してあげてるってだけ」

「わかってますって……これでも感謝してるんですから」

 透はーーいや、バーボンは、飄々とした笑顔を振り撒く。そうしていると本当に"彼"が誰だかわからない。名前でさえこれなのだ。演じている本人はーーどうなのだろう。
 "彼"は強い。名前の不安など杞憂に決まっている。でも、案じるのは自由だろうとも思うのだ。
 だから名前は触れた。自分の肩に、強ばった"彼"の手に。

「……っ」

 そうすると、弾かれたように透は目を見開いた。しかも彼だけじゃない。ベルモットまで驚いた顔をしている。そして一瞬のうちに二人の表情は真反対のものに移り変わった。

「名前……」

 喜びに満ちた響き。天使のラッパでも聞こえてきそうな声音。輝く瞳に、名前の方がたじろいでしまう。
 「透……?」不安を滲ませ訊ねる名前の後ろで、ベルモットは大きな溜め息を吐いた。

「なら態度で示してちょうだいよ」

 腕を組むベルモットに、透はバーボンの顔で人差し指を立てる。

「では、こういうのはどうでしょう?」

 もう片方の手は相変わらず名前の肩に食い込ませたまま、バーボンは笑う。

「名前を傷つけた男の首をあなたに捧げるというのは」

 ……なんて物騒な。そんな素敵な笑顔で口にする内容じゃない。しかもいつもの調子で言うものだから、名前は思わず想像してしまった。満面の笑みを浮かべたまま赤井秀一の生首を掲げる安室透の姿を。
 提案されたベルモットはといえば、その美貌を嫌そうに歪めていた。

「首なんか私に寄越されても困るわ。つまらない仕事が増えるだけじゃない」

 問題は処理方法だけなのか。いや、単に面倒になっただけだろう。彼女は「いい?」と念を押した。

「私が欲しいのは報告よ、……標的を始末した、その報告だけでいいの」

「なるほど、承知しました」

 それに対し透は大仰に頭を下げて見せた。ずいぶんと芝居かかった仕草。そこでようやく名前にも察しがついた。
 たぶん、きっと、透はわかってた。ベルモットが首なんて欲しがらないこと。それを見越した上で、あえてその話を振った。そして言質をとった。死体はいらない。ただ、赤井秀一を始末すればいい。その方法は、手段は、彼の自由だ。

「話は済んだでしょ、さっさと着替えてきなさい」

「はいはい……」

 シッシッと虫でも追い払うみたいにあしらわれても、バーボンはちっとも気にしない。「行ってくるね」と名前にウインクを送ってくれる。

「行ってらっしゃい……」

 それはそれで嬉しいのだけれど、ベルモットの機嫌がさらに悪くなる気配を感じてハラハラする。
 しかし透は歯牙にもかけない。自分のペースを崩さない。彼は扉に手をかけたところで、「あ、」と思い出したように声を上げた。

「言っておきますけど、僕がいないからって名前に好き勝手してもらっちゃ困りますからね」

 小首を傾げる所作じたいはなんてことないのに、言葉に毒が含まれているーーような気がするのは気のせいだろうか。それに応戦するベルモットの瞳が獣のように見えるのも、やはりそうなのだろうか。

「あら、焦るあなたが見られるなんて惹かれるわね」

 ほそりとした指を頬、唇に添え、ゆったりと微笑するベルモット。きゅうっと細められた目は猫みたいだ。
 爛々と輝く目に、透は眉尻を下げた。

「よしてくださいよ、本当に……」

 弱り果てた。そんな表情。……なのだけれど、ベルモットの気配は緩まない。彼女は彼がどういう人間かよく理解していた。
 だからバーボンが「ほら、忘れたわけじゃないでしょう……?」と意味深に口端を上げた時もやっぱりねと鼻で笑った。

「こんなところで切り札を切るなんて愚の骨頂じゃないの?あなたらしくもない」

「らしくない、ですか?……いやいや、これこそが僕ですよ。それとも、嘘か本当か見抜けないほど耄碌しました?」

「ほんっと、一言多いわね」

 飛び交う刃。棘の含んだ言葉の応酬に、またしても名前はついていけない。「名前、」と透に呼ばれて、やっと声を出せたくらいだ。

「くれぐれも魔女に近づきすぎてはいけないよ」

「う、うん……」

 こくこくこく。壊れた人形のごとく首を振る名前に満足したのか。透は笑みを深めて手を振った。

「バーボンに預けたのは失敗だったかしら……」

 彼の背中が見えなくなってから。ベルモットはまた溜め息を吐いた。けれど今度のは先ほどとは比べ物にならないほど深い。疲れの覗くものだった。
 そしてその言葉に対して名前ができたのは、曖昧な笑みを返すことだけであった。