司書と漱石の隠し事


 自室に向かうにはロビーにある階段を使わなければならない。だからその時帰宅した漱石を名前が見つけたのはごく自然なことだ。それから「おかえりなさい」と声をかけたのも。
 なのに漱石は一瞬、ほんの一瞬だが肩を揺らした。階段の中ごろに立つ名前を見上げる顔にはいつもの穏やかな微笑が乗っていたのだけれど。それでも名前は「あら」と思った。確証があったわけではない。けれど違和感があった。
 2度目は彼の顔を覗き込んだ時だ。階段をおり、何の気なしにそうしたら。

「……っ、」

 どうかしましたか、と漱石は言った。だがその前に間があったのを名前は見逃さない。ーーなにかがおかしい。名前はきゅっと唇を引き結んだ。

「名前さん……?」

「…………」

 まじまじと眺め回す。いつも通り整えられた髭。ジャケットにも靴にも変化はない。でもやっぱりおかしい。なにかが違う、なにかがーー
 前後ろ横。ぐるぐるぐるぐる漱石の回りをしつこく嗅ぎ回る。困ったように身動ぐ彼。ふわりと香るーー甘やかな匂い。

「あっ、」

 名前は顔を上げた。びくりと震える目を怯むことなく見つめた。

「……また、甘味を食しに行かれましたね」

 名前の言葉に、漱石はうっと呻いた。さ迷う視線。けれどすぐに深い息を吐いた。それは降参の証だった。
 「はい……」小さな声はひどく頼りなげだ。

「しかしですね、今日はひとつ我慢したのですよ」

 あなたのために節制しようと決めた誓いは破っておりません。漱石は言い訳がましく言葉は募る。だがそれは名前の求めているものではなかった。だって名前が怒ってるのはそういうことじゃない。そうじゃないのだ。

「わたくしはただ、先生が外に行かれたのが悲しいのです。わたくしに黙って、わたくしではない者の甘味を食して」

 名前は漱石の袖を掴んだ。この手がこの声が自分から遠ざかるのが、いっとうつらい。そういうことを彼が一切考えていなかったということが見開いた目から伝わって、さらに苦しくなる。空回ってる。自分ひとり。追いかけているのが、今はひどくつらかった。

「……先生を縛ろうだなんて烏滸がましいって、わかってはいますの」

 詰問していたときとはうって変わって名前は俯く。「わたくしにそんな権限はない。先生がわたくしを想ってくださるだけで幸福だと、確かにそう、思っていたのですけれど」名前は密やかな息をついた。思うようにいかない。自分はもっと達観できていると、そう思っていたのに。なのに先生は優しいから。優しいから、それ以上を求めてしまう。どこまでも強欲に。自分でも、嫌になるほど。

「名前さん、」

 静かな声が落ちる。名前は肩を揺らす。それだけ。顔をあげることはできなかった。
 ますます縮こまる名前。その頭を、漱石はそっと撫でた。びくりと震える身体に目元を和らげる。

「私も、まだまだだったということですね。いや成長の余地があるというのは喜ばしいのですが」

 顔をお上げ。柔らかな声に、そろりと名前は動く。操られたみたいに。目を合わせると、それだけで終わりだった。力が抜けていく。なのに漱石はそれ以上の優しさをくれる。名前には勿体ないほどの優しさを。

「よろしければ明日、あなたの作る羊羮が食べたいのですが」

 我儘を言う子供のように、それを恥じる青年のように。漱石は照れ笑いながら、名前の手をとる。「いけませんか……?」窺う声に、名前はさっと声を上げた。いいえ、と。

「どうかわたくしに作らせてください」

「はい、お願いします」

 くすりと漱石は笑む。名前もつられて表情を弛める。
 あぁ、でも。

「あんまり食べ過ぎるのはやっぱりやめてくださいね」

 わたくしと一緒に生きてくださらないと。そう言われ途端にショボくれるのがまたいとおしくて。
 名前は幸福に胸を詰まらせるのだった。





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お題箱より。ありがとうございました!