司書と直哉
雨の日は本当に憂鬱だ。気圧の変化から来る頭痛。頭痛から来る吐き気。そして倦怠感。処方された薬があるにはあるが、飲むのが遅れると、それは途端に意味をなくす。しかし飲みすぎると効き目が悪くなるというのだからもうどうすればいいのか分からない。鴎外には依存しすぎるなと言われたがーー今日はこんなに酷いんだからしょうがないわ、と言い訳して薬を飲んだ。だが今日はその効かない日だったらしい。
「おい、大丈夫か?」
司書室の机に突っ伏していると優しい声が降ってきた。
のろのろと頭を上げる。青みがかった髪に、みどりの目。
「直哉さん……」
潜書帰りの志賀直哉が立っていた。
「大丈夫……じゃなさそうだな」
彼はひとつ頷くと、「ほら、立てるか」と言いながら名前の脇の下に腕を入れた。彼に支えられ、軋む頭を押さえながら、名前はなんとか立ち上がる。
すると。
「よっ、と」直哉の手が名前を抱きあげる。急に高くなる目線。浮遊するからだ。「なに、を」戸惑っている間に、彼はずんずん歩いていく。その足に迷いはない。
司書室を出て。ロビーを横切り。渡り廊下を抜け。階段を上り。「わっ……、」名前はベッドに下ろされた。
「病人はおとなしく休んでるんだな」
布団を引き上げ、直哉は言う。「何か欲しいものはあるか?水は持ってきてやるけど、あとは……なんだろうな。あっためるのと冷やすの、どっちがいいんだっけ?」直哉はどんどん話を進めていく。しかもその内容から察するに、ここが病床になるのは確定事項らしい。
ーーそれは困る。困る、と思っているのに。痛みは名前から力を奪っていく。なにもしたくない。なにもかんがえたくない。身のうちから沸き上がる本能。それはさながら神の命令のごとく。忌避できぬ死のごとく、名前の身を焼いた。
それでもなんとか身を起こした。「ダメ、です」私には仕事がある。潜書が終わったというならその報告書を書かなくては。書いて提出しないことには。それらを回らぬ舌で伝えようとする。が、
「なんだなんだ、俺の言うことが聞けないってのか?」
と柔く押し止められては逆らえない。「いいから寝てろって」肩を押され、呆気なく倒れる体。鼻が触れ合いそうな距離。澄んだ瞳に吸い込まれそう。そう錯覚するほど緑の眼には不思議な力があった。それはどこか魔的で。
「はい……」
名前は大人しく目を瞑った。そうでもしないと彼は手を離してくれないだろうからーーというのは言い訳かもしれない。しかし言うことを聞いた後も疑われているのが真っ暗な視界の中でも視線で感じた。きっと今目を開ければあの緑の眼が名前を見ているに違いない。それは容易く思い描けて、名前はもどかしい気持ちを抑えるしかなかった。
視界が閉ざされると他の感覚が鋭敏になる。自分の呼吸と鼓動。それらの音に体が支配され、ゆるやかに落ちていくのがわかる。
「ーーーー、」
眠りに呑まれていく中、声を聞いたような気がした。けれどその記憶すら次に目覚めた時には失われていた。
名前が目を覚ましたのはそれから4時間ほど後のことだった。まず知覚したのは柔らかな香りーーこれは確か中庭で嗅いだことのあるーーそう、犀星が育てている花のひとつではないだろうか。たとえばーーガーベラだとか。そんなことを霧がかった頭で考えた。それから時計を見てーー愕然とした。
霧が晴れる。頭に冷水をしこたま被らされた気分だ。
どうしようーー焦っても時計の針は戻らないし窓の向こうは夜のまま。とうに勤務時間は終わっている。本当なら今ごろ皆で食卓を囲んでいるはずなのに。どうして誰もーーこういった時に一番に浮かぶのは秋声でその次が紅葉だったーー起こしてくれなかったのだろう。といつか、夕餉の用意もできていないのだが、皆はどうしたのか。そうだ、まずは秋声を探さないとーースリッパを引っかけ、慌てて寝室と客間を隔てた扉を開ける。
すると。
「お、もう起きたのか」
果たしてそこには志賀直哉がいた。革張りのソファに悠然と座り長い足をゆったりと組んで。自分の部屋にでもいるかのように、彼は名前の部屋に馴染んでいた。
……いや、馴染んでいるというのは少し違う。備え付けの家具ばかりの部屋は調和はとれていてもどこか寂しげであった。しかしそこに彼がいる。それだけで空気が華やいでいた。生命が注ぎ込まれ生き生きとしていた。彼が部屋に馴染んでいるのではない。部屋が、彼に馴染んでいるのだ。彼はただそこにあるだけで、皆が彼に追従した。質素なソファも陰気なカーペットも年代物のテーブルも。直哉の前ではアンティークとなった。
だが直哉にとってそれは問題にならないらしい。彼は読んでいた本に栞を挟み、真っ直ぐ名前に向かってきた。
「どうだ、少しはラクになったか?」
顔を覗き込まれ、近距離で見つめられ。思わず名前は目をそらした。この緑の眼と見つめ合うなんて到底できない。そんなことができるのは実篤並みの心臓の持ち主だろう。
おまけに直哉はさらに距離を縮める。「ん……、熱はないと思うが」前髪を掻き分ける繊細な指。重なる秀でた額。端正な顔を惜しげもなく名前に差し出してきた。その間名前はぼうとした顔で彼の睫毛の長さについて考えていた。
「そうだ、メシは俺が作っといたから心配ないぜ。お前の先生ももう満足したから毎日作るこたぁないってさ。これからは持ち回りでやってこうって話つけといたから」
「そう、ですか……。ええと、あの、色々とありがとうございます……」
「いやいや、礼を言われるようなことじゃあないって。んなことより、お前の分もちゃあんと用意してあるからな」
ほら、と手で示された先。テーブルの上には鍋が鎮座していた。
「今あっためてやるから待ってろよ」
肩を抱かれ、ソファに座らされる。促されるがままそうした名前であったが、頭は申し訳なさやら情けなさやらで一杯だった。直哉に仕事の肩代わりをさせただけでなく、名前自身の世話までさせてしまうとは。どうすればこの恩に報いることができるだろう。名前に差し出せるものなど、何もありはしないのに。
「なにシケた顔してんだ」
ぐるぐる思い悩んでいる間に直哉が戻ってきてしまった。彼は鍋を置き、名前の隣に腰を下ろす。なぜ前ではなく隣なんだろうという疑問は今の名前には浮かばなかった。
「それは、だって、」名前は唇を噛む。
「ご迷惑をお掛けしたくなかったんですもの……」
なのにこの体たらく。こんな恵まれた環境の中ですら満足に働けないとは。手配してくれた祖父の顔にも泥を塗ったろう。秋声にもきっと呆れられた。もしかすると家に戻されることになるやもしれない。そうなったら父は何を思うだろう。父は、母は、ーー兄は。
「迷惑、ねぇ……」
そう言った彼の表情は見えない。どんな顔をしているのか。何を思っているのか。知るのが怖かった。怖かったから、肩を縮めて俯いていた。叱られた子どものように。目をそらし、耳を塞ぎ、逃げ出したいと思っているのに、体は言うことを聞かない。五感すべてがどんな些細な仕草すら逃さぬと直哉の様子を窺う。彼が手を伸ばすのも口を開く気配も、何もかも感じ取れて、名前は体を固くした。
「そんなことより、」ぎゅっと目を閉じる。彼は、何を言うのだろう。彼は、直哉は、神様は。
「さっさとメシ、食っちまおうぜ」
は、と名前の口が開く。が、直ぐにその隙間は埋められた。目の前の神様によって。正確には、神様の手にあるスプーンによって。「ん……」程よく温まった雑炊が口内を満たす。
「どうだ、旨いか?」
自信ありげな声に名前は頷いた。どうして否定などできようか。事実十二分においしいのだから。
空っぽの肉体に卵の甘さとじんわりとした温もりが染みゆく。「……よかった」その微笑みにも、目頭が熱くなる。なのに直哉は更に追い討ちをかける。
「迷惑だとかなんだとか、そんなのどうだっていいんだよ。それよりあんたが苦しんでる方が俺たちにとっちゃずっと痛いんだぜ」
特にあんたの御世話係にとっちゃあな、なんて茶目っ気もつけ加えて、直哉は名前の頭を撫でた。
「それでも申し訳ないって言うなら明日っからまた頑張りゃいいさ」
その言葉は不思議と名前に染み込んでいった。これがたとえば秋声の言葉だったらそうはいかない。だって、秋声は優しいから。あまりに優しいから、どんな時だって名前を慰める。そういう人だって名前は知っている。知りすぎてしまっている。だから、彼だったらこうはいかない。志賀直哉だから。小説の神様だから。平等に優しく、平等に残酷な神様だから。彼の特別は名前には与えられていないから。ーー彼は、誰にだって執着しない人だから。
「……その通りですね」
それが今の名前にとっては救いだったとそこまでは直哉も気づいちゃいないだろう。たぶん、きっと。
それがおかしくて、名前は小さく笑った。直哉が名前を見つけた、そんな偶然の奇跡。神の気まぐれじみたそれが実際は神すら預かり知らぬことだなんて!
「いい顔すんじゃねぇか」
直哉が目を細める。「やっぱ笑った顔が一番いいな」当たり前だけど、とくしゃりと笑んだ直哉の顔もうつくしいものであったけれど。
後日彼が見せた顔もーー北原一門から「見舞いの花には何がいいかと"困り果てた様子の志賀直哉"に訊ねられた」という話を名前が聞いてしまった時に見せた焦りと照れとその他色々なものが混じったものだーーまた人間らしくうつくしいものであると名前は思ったのだった。