久方ぶりの晴天だった。
空とはこれほど澄んでいただろうかと思わせるほどの青である。しかしさえざえとしているのは空だけじゃない。名前の頭も霧が晴れたように軽かった。朝は2回目の目覚ましが鳴る頃には起き上がっていたし(秋声に驚かれた)、ここ数日滞っていた書類も午前のうちに片づけられた(紅葉に驚かれた)。これで寝るときには新品みたいに生まれ変わった布団の中で眠れるのだから、今日はきっといい日になる。洗濯用ロボットが忙しなく働いているのを眺めながらそう思った。梅雨の間も機械が湿気を取り除いてくれていたが、それでも自然の力には遠く及ばない。なによりあの得も言われぬ香りといったら!あれはお日様の匂いと表するのが一番似つかわしい。たとえその正体があまり美しくないものだとしても。
「李はいいね」
昼食のシーザーサラダを食べながら唐突に言ったのは白秋だった。「君もそう思うだろう」彼は名前を見ていた。意味ありげに光る瞳に、名前は小首を傾げた。きっと顔には戸惑いが表れているだろう。
「いいですね、李」ゆったりと答えたのは朔太郎だった。テーブルナプキンにパンくずをぽろぽろ零しながら、彼は頷く。名前はその反対に目をやった。朔太郎の真向かいに座る犀星と目が合う。彼はトマトと梅のパスタを頬張りながら、にっと笑った。……意味が分からない。
結局答えは見つからないまま。観念して、名前はフォークを置いた。
「ええ、そうですね」
当たり障りのない返事。白秋は片眉を上げた。それで?促すように名前を見る。妖しげにゆらめく紫の瞳。これでは正面に座る名前は逃げようがない。名前も視線を返した。じいっと見つめ、その奥を読み取って……、そうしてしずしずとひとつの案を出した。
「頼みましょうか?今注文すれば夕食には間に合いますから……、そう、コンフォートなんかどうかしら」
白秋はにっこり笑った。
「実はもう注文済みなのだよ、僕は用意がいいからね」
さすがは白秋先生!名前は溜息を吐いた。「それならそう言ってくださればいいのに」回りくどい真似をして。脱力する名前と楽し気に笑う白秋。きっと彼は最初からこの展開に持って行くつもりだったのだ。名前を彼らのテーブルに呼んだのもそのため。それにしたって彼は現代に馴染みすぎじゃないだろうか。ネット通販を駆使する北原白秋なんて、司書にならなきゃ知ることもなかった。でも「楽しみにしているよ」なんて言われてしまえば名前はもう彼の言いなりになるしかない。頼られて嫌な気分になる人間なんていないのだから。
――という話を多喜二にしたところ、
「けどアンタはそれが嬉しいんだろう?」
と言われてしまった。
そしてそれを否定できないのがまたなんとも。
「そんなに分かりやすいのかしら……」
頼られて喜んでいるのがバレバレだなんて恥ずかしいにもほどがある。おまけに安い女だと思われたらどうしよう。いや、女というより子どもか。微笑ましいと思われたらまだいい方で、憐れまれなどしたら目も当てられない。情けなさと申し訳なさで穴を掘るしかなくなってしまう。
そんな風に肩を落としていると、多喜二がちいさく笑った。「アンタとも三月の付き合いになるからな」見れば、午前の潜書報告を纏める手が止まっている。
「笑い事ではなくてよ」名前が口を尖らせても彼の口角は下がらない。「いや、なんだ、」相変わらず言葉を探しながら彼は続ける。「アンタ、変わったよ」名前を見る目がいやに優しい。
「”嬉しそう”ってのと”嬉しい”は別だろう。そして今のアンタは後者だ」
自発的に特定の人間のためになろうとするのは以前の流されるがままだったアンタとは違う。
そうはっきりと多喜二は言った。
実直すぎる言葉。嘘偽りのない眼差し。それを間近で浴びてはひとたまりもない。
名前は呻いた。「褒め殺す気ですか……」すっかり報告書を書く手が止まってしまった。これを提出しなければ中也の壊した備品はいつまでたっても取り替えられないというのに!
だというのに、多喜二はまた笑う。
「今のアンタの方が真っ直ぐで好きだよ」
――だからどうして彼らは名前が喜ぶようなことばかり言うのだろう!
「……ということがあったのですけど」
夕刻。館長から新たに配給された有魂書を運びながら、秋声に事の次第を話して聞かせた。廊下には穏やかなオレンジの日が差し込んでいる。名前は紅い紐で括られた本を抱え直した。一番上に乗っかっているのは永井荷風の著書、その写し。館長がどんな基準で有魂書を作っているのか名前は知らない。聞いたけれど、いいや特に理由はないと答えられてしまってはそれ以上はできなかった。本当に理由はないのかもしれない。だから荷風の下に誰のどんな作品があるのかも、今はまだ。
多喜二に弄ばれた(というと語弊があるが、しかし名前にとったらそうとしか感じられなかった)あと。備品の再発注をなんとか行い、それを提出する頃には、白秋の注文した李が図書館に到着していた。「うん、このみずみずしさはいいね」ひとつよみたくなった。なんて白秋は満足げに頷いた。
配達用ロボットは李以外にもいくつかのものを運んできた。たとえば、何本ものビール。これは中也の故郷で作られたものであった。そして頼んだのもまた彼である。「まだ残りがあったはずでは?」品物を取りに来た中也は、これを聞いて目を逸らした。「いやあ、どこかに行っちまったらしくてな」……そんな嘘に誰が引っかかるというのか!名前は彼をねめつけた。「……あなたの壊した椅子が新品にかわるまで、一日一本にしてもらおうかしら」中也はもちろん抗議したのだけれど、白秋や朔太郎にまで頷かれてはしようがない。涙目で振るわれた拳は朔太郎まで届かず、犀星の手で叩き落とされたのだった。
このように、中也が名前に手を出すことはない。粗暴なようでいて、存外優しいところもあるのだ――こう言うと彼は嫌がりそうなので、名前は胸のうちに留めている。
「皆さんわたくしを甘やかしすぎだと思いますの」
その筆頭は、素知らぬ顔で名前の倍の本を運んでいた。もの言いたげな雰囲気を察しているだろうに表情一つ変えない。「このままでは堕落してしまいそう」ちらり、ちらり。あからさまに視線をやって、ようやく彼の目は名前を映した。でもそれは名前が期待したものじゃなかった。「ふーん、」笑う目に、名前は思わずたじろいだ。……嫌な予感がする。
「じゃあ朝起こしに行かなくても平気なんだね」
「……っ、そ、それはその……、」
一撃。これはいたい。非常に、いたい。
心情としてはイエスと言い切りたいところ。しかし経験はそれを裏切る。
名前は逡巡した。目を彷徨わせ、口を開けては閉じるを繰り返した。でもしまいには白旗を上げるしかなかった。「困ります……」ぼそぼそ。秋声と出会う前はどうやって起きていたのか、今ではもう思い出せなくなっていた。
俯く名前に、秋声は口角を上げた。「仕方ないね」さも頼まれたから渋々やってあげますよといわんばかりの語調。最初に名前を甘やかしたのは彼だというのに!
名前は拗ねた。抗議の意を込めて、殊更分かりやすく態度に示した。そうしながら、今日はこんなことばかりだと思った。いい日になるという予感は間違いだった。名前の勘は当てにならないということだ。
「そうしていると余計子どもみたいだよ」呆れたって感じの台詞。けれどその顔は笑っていた。「まぁ、でも、」悪戯っぽく輝く目。見慣れたそれは、名前を揶揄う時のもので。
「バカな子ほどかわいいっていうし、君はそのままでいいんじゃない」
……やっぱり子ども扱いしている!
名前はまた膨れた。とはいえ事実その通りであるので、荷を下ろした秋声に頭を撫でられればころりと機嫌を直してしまうのだった。