月下のたわむれ


 名前がドレスに着替え終えても園子は戻らなかった。女性は身支度に時間がかかるものとはいえ、園子が出ていったのは名前がドレスを決めるより前だ。

「園子さん、なにかあったんでしょうか」

 気を揉む名前であるが、付き合いの長い蘭が「きっと張り切ってるのよ、今日は京極さんもいるわけだし」と言うものだから、なるほど、そうかもしれないと思い直した。たしかに、園子の性格からしてその可能性は高いだろう。
 でも。

「…………」

 なんだろう、この胸のざわめきは。
 嫌な感覚だーー頭の片隅で何かが叫んでいる。違和感。そう、違和感だ。今日の彼女の態度には違和感があった。そぞろな雰囲気。どこかに向けられた意識。

「……やっぱり、見てきますね」

 髪を整えていた蘭を残し、名前は部屋を出た。「心配性ね」と彼女は笑っていた。名前も「そうですね」と笑い返した。けれどそれはドアが閉まると同時に霧散した。そして警察と何やら話をしていた園子をーー彼女の姿をした何者かを見つけた瞬間に、名前の顔は凍った。

「あれ、名前だけ?蘭はどうしたの?」

 警察と別れて、彼女は名前に向かってくる。屈託のない笑み。軽やかな声。どれも名前のよく知るもので、けれどまったく違うものでもあった。

「名前?」

 彼女は足を止める。名前の前で。ほんの数十センチの距離で。周りに人はいない。廊下はしんと静まり返っている。警察は展示室に帰ってしまった。ここには名前と彼女だけ。ーーこの、園子の顔をした何者かだけが。

「…………っ」

 痛みに歪む顔。それすら園子そのもので。だからこそ名前は手加減しなかった。これは園子ではない。名前を友と呼んでくれた優しい娘ではない。
 「ちょ……っと、どうしたってのよ」ひきつり笑う顔を名前はねめつけた。

「あなた、怪盗キッドでしょう」

 園子の仮面を被ったままの人物。名前に背後をとられ、顔は壁に押しつけられた挙げ句、手首をひねりあげられているというのに、彼はなかなか本性を表そうとしない。

「なに言ってるのよ、わたしがキッド様なわけないじゃない」

 往生際が悪い。根性がすわってるともいえるが。
 だがしかし、今は無駄な問答をしている余裕がない。

「あなたが認めようが認めまいがどうだっていい。私の要求はだひとつ、彼女の身の安全、それだけ」

「だから……っ」

 怪盗キッドはなおも言い募ろうとした。けれど深いため息を吐くと、「……お嬢様なら無事だぜ」と強張った体から力を抜いた。

「そう……」

 ーー園子は無事。そのことは彼の声色から事実とわかる。だから名前も彼を解放してやった。まぁ、手首を掴んだ手は彼女を見つけるまで離してやれないが。その意図は彼もわかっているらしく、やれやれと言いながらも文句は言わなかった。

「それで?なんでオレだってわかったんだ?」

「それは……」

 その声は名前の知る少女のものではない。男の、しかし少年らしいあどけなさの残るものだった。意外だーー怪盗キッドはベルモットくらいの年頃の男だと名前は勝手に思っていたのだから。
 ともかく、彼は真実を話してくれた。ならば名前も彼の質問に答えねばなるまい。しかし名前の素性を語るには時間がないしーーだいいち組織の話は他言無用だ。怪盗キッドーー平成のルパン、月下の奇術師。犯罪者とはいえ、その心根まで腐ってはいない者を闇に引きずり込むわけにはいかない。
 だから名前は迷った末に、「……私、鼻がいいの」とだけ言った。嘘は言っていない。けれど、それ以上でもない答え。

「はぁ?」

 予想通り、怪盗キッドは首をかしげた。何をいってるんだ、そう言いたげだ。目を丸くした顔は年相応のもので、彼の一端に触れたようであった。
 もしも追及されたとして。名前が彼に話せるものはなにもない。だからどうしようかと内心弱っていたのだけれど。

「まぁ、アンタのことは今回は置いておくけどよ」

 と、言ってくれたのでほっと胸を撫で下ろした。ついでに「ま、お嬢様はピンピンしてるから安心してくれ」とまで教えられ、名前の懸念は晴れていく。どうやら心配しすぎたらしい。

「ありがとう……」

 気が緩んだのが顔にまで表れるのが自分でもわかった。思わず浮かんだ微笑。零れた言葉。
 「……っ」息を呑む音。鳩が豆鉄砲食らったような、そんな顔。その反応に名前の方まで驚いてしまったのだけれど、

「……礼を言われるとは思わなかった」

 と空いてる手で決まり悪そうに頬をかくのを見て、得心がいった。同時に、自分でもなぜ自然とその台詞が出たのか不思議に思いもした。でも名前の友人をーー自分に優しくしてくれる人たちを思い浮かべ、あぁ、そうかとひとり頷いた。そうか、きっと、彼女らならそうするだろうからーーだから、名前もそう口にしてしまったのか。彼女たちの、おかげで。
 和やかな空気が広がるのが名前にも、恐らくキッドにもわかった。だからか、彼はゴホンと咳払いをひとつした。それにつられ名前も居住まいを正す。

「とにかく、お嬢様は元気だし……つーか今回の件、お嬢様も一枚噛んでるしな」

「彼女が?」

「そ、」

 彼が教えてくれたのは、名前には想像もつかなかったことの真相である。園子と怪盗キッドとの間で交わされた取引。園子に成り済ました怪盗キッドを京極真が見破れるかという賭け。その代わりに園子がキッドの手助けをしたのだと彼は語った。

「ま、詳しくは本人から聞いてくれ」

「……いえ、それ以上は」

 園子も無鉄砲なことをする。お嬢様なのだからもっと警戒心を持つべきではないだろうか。今回は相手がよかったとはいえ……とんだじゃじゃ馬娘だ。京極真が彼女に心酔していることなど、先日の世良真純との一件からも明らかだろうに。

「で、アンタはどうするんだ?」

「……?あぁ、」

 一瞬なんのことかわからなかった。でも彼の視線が自分の手首にいっているのに気づいて、名前はパッと手を離した。

「二人の邪魔立てをするつもりはない。だから安心してほしい」

 彼の言葉をそのまま返し、名前は首を横に振る。名前は探偵じゃないし、名前の信じる探偵はいまこの場にいない。安室透、彼が怪盗キッドが対立したなら話は別だが、今回に限っては園子も手を貸している。キッドを阻む理由はどこにもなかった。

「わっかんねぇな、アンタ……」

「そう?」

「いや、邪魔しねぇってのはありがたいけどよ……」

 そろそろ蘭も心配するから戻ろうーーそう言って廊下を歩きながら、彼は微妙な顔をする。

「あんだけ殺意バリバリだったくせあっさり納得するし……、のわりにオレのファンって感じでもねーし」

「邪魔してほしいの?」

「まさかっ」

 勘弁してくれと冷や汗を浮かべるのが面白くて、名前は笑ってしまった。 怪盗キッドーー平成のルパン、月下の奇術師。その素顔はきっと同年代の少年と代わらぬのだろう。そんな彼がどうして怪盗などやっているのやらーー気になったけれど、問うのはやめておいた。それが自分を追及してこなかった彼への礼儀だと名前にもわかっていたから。