二つの顔を持つ男

 扉の向こうはしんと静まり返っていた。物音ひとつ、呼吸ひとつ、聴こえない。
 暗がりのなか、手探りで明かりをつける。かちり。一瞬の溜めのあと、室内はその様相を名前に見せた。

「……っ」

 帰宅した名前に与えられたのは驚愕。あまりに大きなそれは名前から思考を奪っていった。
 眼前に広がる光景。躊躇いつつも名前は息を殺して忍び寄る。ソファに転がる人影へ。

「透……?」

 返事はなかった。
 代わりに吐息のような音が微かに開いた唇の隙間から零れ出た。それは安室透が眠っていることの何よりの証だった。
 ーーそう、彼は眠っていた。
 リビングのソファの上。無防備に身体を投げ出して。彼は、眠っていた。
 青天の霹靂。驚天動地。頭を駆け抜けたのはそんな言葉だった。
 次に名前はその寝顔をまじまじと見つめた。膝をつき、顔を寄せて。初めて見る顔を目に焼きつけた。
 長い睫毛が落とす影。頬にかかる艶やかな髪。薄く色づく唇。そうしたものを記憶した。
 そのあとで、名前ははたと気づいた。
 こんなところで眠っていては風邪を引いてしまうーーようやく思い至り、名前は慌てて透の肩を揺さぶった。

「本当にごめん、」

 両手を合わせて謝る姿に、名前は眉を下げた。

「謝らないで。こういうの、嫌いじゃないから」

 二人の間にはインスタントラーメンが湯気を立てていた。
 名前は慣れた手つきで箸を使ってラーメンを啜る。嫌いじゃない。というより、懐かしい味。日本に来る前、一人で生きていた時の名前は食事に頓着がなかった。手間がかからず、腹を満たせればそれでいい。味はほどほどなら十分だった。栄養なんて知ったことではなかった。
 だから、夕飯の準備ができていないと透に謝られても困ってしまう。

「疲れていたんでしょう?仕方ないわ」

「そう……かもしれないけど」

 完璧主義者は肩を落とす。たったひとつの手抜かりすら許せないのだ。
 探偵、安室透。組織の調査員、バーボン。二足の草鞋というだけでも苦労は想像に容易いというのに、ここのところの彼は赤井秀一の調査まで行っている。疲れない方が不思議だろう。
 にも関わらず、今日まで一切の弱みを見せなかった。だから今回のことは少し嬉しくもあるーーもちろん、口にはしなかったけれど。

「それより、怪盗キッドには会えたのかい」

 透は咳払いをして話題を変えた。露骨だ。けれど名前も話したかったから乗ることにした。
 自分よりもよほど綺麗な手つきを眺めながら、名前は口を開いた。

「会えたというか……」

 会話までしてしまったのだけれど。
 でもあんまり詳しく話したら心配をかけてしまうかも。透には園子に誘われたから見学してくるとしかメッセージを送っていなかったしーー。
 考えた末、

「彼の変装技術は見事だった。たぶんベルモットにも引けをとらないくらい」

 とだけ答えた。

「そう……」

 透の目が光ったように見えたのは名前の気のせいだろうか。
 わからない。が、透がそれ以上聞いてくることはなかった。ただ、「無理はしちゃいけないよ」とだけ言って、名前の頭に手を置いた。

「……それはこっちの台詞」

 一番無理をしている人間が何を言うか。
 名前は口を尖らせた。せっかく飼っているのだから、名前という駒くらいもっと有用に使ってくれて構わないのに。
 思わぬ反撃に透は苦笑した。

「無理してるつもりはないんだけど」

「じゃああんなところでうたた寝をするのが透の当たり前だって言うの」

「……弱ったなぁ」

 透を困らせたいわけじゃない。だからといってこのままにもしておけなかった。

「そんなに言うんなら、赤井秀一の件が片付くまで家事の一切は禁止にするから」

 強行突破。これしかない。
 名前は腕を組んで透を睨めつけた。
 呆気にとられた、そんな顔。しかし名前が一歩も引かない姿勢を見せると、相好は一気に崩れた。

「……うん、」

 ありがとう、と彼は言った。
 でも名前は悔しかった。こんなことしかできない自分も。ーー赤井秀一に敵わない自分も。
 キッドやベルモットのような才能があったらな、と名前は思った。これまで誰かになりたいなんて考えたことはなかったけれど、今は切実にそう願った。
 彼の力になれる自分に変わりたい、と。