なにもかも捨てて降谷と逃避行する


AGF2017の星テーマ書き下ろしイラストのネタ



 どこからか鐘の音が響いて、名前は窓から身を乗り出した。広がるヒースの荒野。雪解けの季節を迎えた土地は泥でぬかるんでいる。その上を黒い集団が蠢いていた。機械化されたみたいに粛々と動く影。重く垂れ込む空も相まって、その姿はいやに気味が悪い。
 名前はぶるりと体を震わせた。

「そんなとこにいたら寒いだろう」

 早く中へ、と誘う彼は暖炉の側で本を開いていた。ぱちぱちとはぜる炎。光に照らされる顏。温かな微笑に、名前も頬を緩めた。

「そうね」

 立て付けの悪い窓は耳障りな音を立てて幕を下ろした。さして広くない部屋。かつて住んでいた東京の一室とは全く違うーー歴史ばかりを重ねた小さな館。打ち捨てられた郊外の屋敷が今の二人の住み処だった。首都からはずいぶん距離があるから、互いの声と暖炉の炎だけがここにあった。

「まだ雪が降りそうよ、復活祭は終わったのに」

「今年の冬は長いな」

 きっと夏は去年より一瞬で過ぎ去るだろうね、となんでもないように彼は言う。ーー夏。今年の夏もここにいられるのだろうか。名前は目を伏せた。ーーわからない、この国にいられるかどうかすら。名前には先が見えなかった。きっと、彼にも。

「はやく、春が来たらいいのに」

「ははっ、そればかりはどうしようもないな」

 神の采配だ、と彼は笑う。名前は彼の隣に座りながらそれを眺める。「こんなところにも神はいるのかしら」生の気配すら希薄な土地で。神に見放されたような最果てで。

「……いるよ」

 彼の手が名前の髪をすく。以前は腰まであったそれは彼と発つと決めたときに切り落とした。旅に出るには邪魔なだけだ。そう思ったのだけれど、彼に触れられるたび何か大切なものを喪ったような気にさせられる。もう何もかもを取り戻せない、そんな焦燥が込み上げる。

「明ける朝に、巡る季節に、美しきものに、神様はいるんだ」

 じゃああなたが神様なのね、と名前は思った。名前にとって彼だけがすべてだった。赤々と光差す輪郭が、髪が、声が。美しきものはもう彼しか遺されていなかった。
 だから名前は彼の手を握った。「どうしたの」細められた目。その輝きが陰ってしまったのが、名前には何よりかなしい。もう戻らない日々が、戻らない色が。あんなに煌めいていた記憶すら雪に埋もれていく。ぬかるみに足をとられ進むことも戻ることもできない。
 ーーこの荒野は、名前の未来そのものだった。

「……なんでもないわ」

 国家より名前個人を選んでくれた。何より尊いと思ってくれた。名前との未来を、願ってくれた。それで、そこまでで満足したらよかったのに。
 なのに名前は手放せなかった。ーー今だって。振りほどけばいいのに、名前はそうしない。ぎゅっと彼の腰に手を回して、その胸に頬を擦り寄せる。彼も名前に応えて抱き止めてくれる。大好きだよ、そう囁いてくれる。

「ずっと一緒だ」

 これは呪いだ。彼が自身にかけた呪い。一生を荒野でさまよう呪い。名前さえ切り捨てられたら、彼は神に見放されずに済んだのに。

「……うん」

 ずっと一緒よ。そう答えた声は虚ろだった。
 名前の脳裏には先ほど見た影が揺らめいていた。喪に服す人々。黒衣から落ちる雪片。混じり合う雪と泥。ぼうと浮かぶ灰色の顔。ーーそして沈黙。
 彼らは送り出す側だというのに、どうしてだろう。名前には彼らこそが冥府に向かう者たちに思えた。そして名前は、その群れのなかに自分の顔を見た。

「……一緒だからね」

 この嘘がいつまで続くのだろう。いつまで続けられるのだろう。仮初めの逃避行。彼は真に名前と共に落ちようとしてくれているけれど、それでも名前は。

「…………」

 静寂が落ちる。炎のはぜる音だけがする。深紅のソファからは古ぼけた埃の匂いがする。名前の頬には温もりがある。
 ーーそれを喪う日が来るくらいなら。
 彼の腕のなかで名前は唇を噛む。喪うより失った方がよほどいい。名前が落ちて、彼が救われた方がずっといい。だからきっとこの日常もいつかは雪に溶ける。それが春か夏かその先か。いずれにせよ、その時が来たら名前は何を捨てても彼を護ろうと思う。たとえそれが彼の望みではなかったとしても。彼に恨まれるとしても。
 ーーそれでも名前は、国を愛する彼が一番好きだった。






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組織崩壊後。主人公も捕らえられることになったので降谷さんに連れられて旅してるというだけのはなし。