降谷零に追いかけられる冬


 灰色の石畳を毛皮の靴が踏み締める。吐く息はどこまでも白く、連なる山々はどこまでも煙っていた。昨夜降った雪がやんだとはいえ、いまだ遠くには重く立ち込める雲がある。この様子ならきっとまたすぐに降りだすだろう。
 名前はマフラーに顔を埋めた。その下には膝丈のコートを2枚重ねているから防寒対策はばっちりだ。でもゆっくりはしてられないなーーと荷物を抱え直した。芋も豆も結構な量だ。これを抱えて雪嵐の中家路につくのはごめんだった。
 それでも隙間から差し込む日差しは穏やかで、それを受け止める街はきらきらと輝いていた。人々の談笑。温かな営み。そうしたものに名前の頬は緩む。街は、幸いで溢れていた。
 だから気づかぬうちに名前の歩みは自然と鈍ってしまった。それがいけなかった。四方へ放たれた意識。鋭敏な感覚。
 ーーふ、と。
 懐かしい匂いが鼻を掠めた。
 名前は振り返った。流れていく人々。目映いほどの金。凍った目。縫い止められた足。は、と真っ白な靄が踊る。震える唇が音をなくす。ーー人影が、振り返る。

「…………っ」

 見開かれた蒼。褪せない色に、引き戻される。過去へと。名前が名前であった頃へと。果てない夢を見ていた少女へと。引き戻される。引き寄せられる。

「ーー名前、」

 ーーあぁ、と名前は息を吐いた。唇が、声が、心が震えていた。彼の名を呼ぶ自分の声すらどこか遠い。名前は知らず、懐のロザリオを握りしめた。ーー天におられるわたしたちの父よーー……、それは今の名前にとっては唯一のしるべであった。

「ーーきみは変わらないね」

 言いながら、彼は歩み寄る。一歩、一歩。立ち尽くす名前に、微笑みかける。その顔は数年前と少しも変わっていない。流麗な輪郭も、優美な声音も。最後に会った時から少しも変わっていない。

「まさかきみが神に人生を捧げるとは思わなかったな」

 彼の手がベールから僅かに覗く髪を掠める。過ぎ去る時間を感じさせない手つき。痛む胸を隠して名前は頷いた。

「……変わったの、わたし」

 髪もずいぶん短くなったのよ。そう名前が言うと、「もったいない」と彼は眉を下げた。本当に惜しい。そんな声で。もうあの頃とは違うのーー言外に含んだものには一瞥もくれずに。

「少し歩かないか?」

 通りすぎようとした男が名前にぶつかった。それだけで彼は名前を引き寄せた。肩を抱く手。立ち上る思い出。道端でぼうと立っていた二人を人々は迷惑そうに避けていく。それにようやく気づいて彼は苦笑した。そうしながらも名前の肩は抱いたままだった。
 名前は一瞬、目を閉じた。ーー天におられるわたしたちの父よ。わたしたちの罪をおゆるしくださいーー……と。

「これほど冷えるとはね、想像以上だ」

 この国へは仕事で来たと彼は言った。それが嘘だと名前は思った。それはひどく傲慢な考えであった。そうでなければいいーーそう思いつつ、そうであってほしいという傲慢な願い。
 名前は息をついた。

「……日本の方がよほど過ごしやすかったでしょうに」

「そりゃあ僕の国だからね」

 いいところだったろう、と微笑む顔から名前は目を背けた。「そうね」そう言うので精いっぱいだった。彼の国。それは名前の幸福の象徴だ。もっとも幸福だった時。その煌めきは今も名前の中で輝いている。

「でもここもいいところよ」

 二人は大通りを逸れて歩いた。風が吹き抜け、軒先に吊るされた細工物が涼やかな音をたてる。僅かな光。それを取り込み、きらきらと跳ね返る。冬が長いこの地では手製の手芸品が発展していた。いま名前の首にかかってるものもそうだ。動物の牙。魔除けのそれは丁寧に磨かれ白々と光っていた。
 彼は「そうか」と答えた。名前が言ったのとはすこし響きが違った。でもその顔は相変わらず穏やかで。抑えたような声だと思ったのは気のせいだったのかもしれないと思い直す。名前の勘なんてたいがいだ。

「でも食事は前の方がよかったろう?」

 名前から奪い取った荷を見やる。ちらり。その一瞬で中身を見てとったらしい。

「こんな質素な食事できみが満足できるとは思えないけど」

 からかいまじりの響き。名前はむっと頬を膨らませた。

「平気よ」

「ほんとに?」

「……ほんとに!」

 言い返しながら、懐かしさに胸が締め付けられる。それ以上は言葉を続けられなくて名前は黙り込んだ。そして、彼も。
 通りの突き当たりには川が流れていた。すぐ対岸まで渡れる小さな川だ。風に煽られ、波立つ水面。言葉なく、二人はその前で立ち止まった。彼は対岸を見ていた。対する名前は水面を眺めた。それが二人の差で、永遠の隔たりだった。

「……このままきみを連れていけたらって思うよ」

 それはともすれば風に紛れてしまうほどだった。それほどにささやかで、ひめやかだった。それを聞き逃せなかったのは幸か不幸か。いまの名前にはわからなかった。ただひどく胸が痛んだ。

「……行かないわ、わたし」

「……うん」

 知ってる、と彼は言った。言って、笑った。穏やかに、慈しむように。
 「きみがそういう人だって知ってるよ」彼は手を伸ばした。伸ばしかけて、やめた。中途半端に上げられた手。そこに名前から触れることはできなかった。
 彼はゆるりと首を振った。

「それでも待つよ、きみが帰るのを」

「……待たなくていいのに」

 その声は待ってほしいと言っているみたいだった。名前はまたマフラーで口許を隠した。こんなことでもしないよりはましだろう。目を伏せ、口許を隠し。この心すら水底に沈められたらーーどんなによかったか。
 「それでも待つよ」彼は荷を名前に返した。さびしげなほほえみ。それは数年前と同じものだった。あの日あの国で名前が最後に見たもっともうつくしきものだった。

「きみが納得いくまで罪を償って、帰ってくるまで。何年だって待つし何度だって会いに来る」

「…………、」

 名前は彼の名を呼びかけた。けれど結局口をつぐんだ。
 代わりに首から下げたものを彼に差し出した。

「これは?」

「……お守り」

 白々と光るお守り。ネックレスの先端には磨き上げられた狼の牙があった。

「……ありがとう」

 かつて名前に生きろと願った人はやっぱり泣き出しそうな顔で笑った。
 彼は立ち去った。きみを送り届けるほどの勇気はないと言って。
 名前はひとり川岸で立ち尽くしていた。湿り気を帯びた雲が忍び寄るのも今はどうでもよかった。ちらちらと白いものが頬にあたるのも、どうだっていい。

「……れい、」

 とうとう呼べなかった本当の名前。言わなくてよかったと心から思う。口にしていたらきっと決意が鈍っていた。
 名前は罪人だ。いかな理由があろうとも、罪である事実は変わらない。それを彼に赦されることすら名前は罪だと思う。だから別れた。あの日、あの国で。もっとも尊いものから手を離した。そして名前は北を目指した。己を罰するために、北へ、北へと。

「……行けないわ」

 行けるはず、ないじゃない。
 それは揺るがぬ決意だった。そのための言葉だった。
 けれど。

「れい……っ、」

 涙はとうに果てたと思っていた。なのに一筋、名前の頬を伝い落ちる。
 そのまま弾けて消えるそれは名前の夢見た幻そのものだった。





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組織崩壊後
降谷さんは主人公の罪を赦すけど主人公は自分を赦せず遠くの地で修練女になるという話。