眠った先の世界

 店を出ると、途端に猛烈な突風に見舞われる。それは都会のビル群の間で力を増したもので、びゅうびゅうと音を立てて名前を襲った。追い立てられるようにして、名前は車の助手席に飛び込む。白のRX-7。強風と闘いながら、透も愛車のドアを開け運転席に坐る。やれやれ。馬鹿みたいに暴れる風から逃れ、二人は一息ついた。扉の外ではまだごうごうくぐもった喚き声が聞こえる。
 透はキーを挿した。そしてフロントガラスを見て言う。「今夜は荒れそうだな」二人が車から離れている間に降り出したようで、ガラスには薄く雪が積もっていた。黄昏時にも関わらず灰色で塗り固められた空。ベンチレーターから噴き出す温かな風に手をかざしながら名前は頷いた。

「今朝のニュースでは降るのは夜中だって言ってたのに」

「天気予報ってのはそういうもんさ」

「ふうん」

 少しエンジンを温めてから、透はゆっくりと車を南へ動かした。リズミカルにカタカタと鳴る窓ガラス。その向こうでは人々がコートの襟を立てていたり、逆さまになる傘を必死でおさえていたりした。

「いい買い物ができたね」

 ちらりと後部座席に視線をやって、透は言った。名前もつられて振り返る。後部座席に積み込まれた荷物。吹き荒れる風の影響で、彼らはぶつかり合っていた。
 「買いすぎじゃない?」名前はこの荷物を片付けることを考えただけでうんざりした。服、服、服。袋に入っているのはその殆どが名前のためのものであった。

「名前は女の子なんだから流行に敏感じゃないと」

「それにしたって買いすぎだし、第一女のものを透が選ぶのはおかしくない?」

「僕の方が名前に似合うものを選べると思うけど」

 ああ言えばこう言う。さらに言い募ろうとして、名前は思いとどまった。代わりにハンドルを握る透を眺める。全身――爪先から頭まで。ダークブラウンのサイドゴアブーツにスキニーパンツ、黒のチェスターコートとタートルネックのセーター。名前はきゅっと唇を噛む。

「……まぁ、それは否定しないけど」

 まったく!安室透という男は隙ってヤツと絶縁関係にあるらしい。おまけに口も達者ときてる。完璧な人間なんていやしないさ、だって?スコッチの言葉に初めて疑いを持った。スコッチ、あなたの知ってるバーボンは私とは会ってくれないみたいよ、と。
 「なら問題はないってことだ」勝者はニッと口端を上げた。まったく、まったく!名前はそっぽを向く。無言の抗議。今の名前は突風に翻弄される通行人Aだ。風に足元を掬われすっ転んだ見知らぬ男性にすらシンパシーを感じる。

「そうだ。来週の土曜日、警視庁に行ってくるから」

 そして安室透という男はいつも唐突に爆弾を落とす。いつぞやのFBIの件といい、今回といい。「何かしでかしたの」霞が関、桜田通りの先端に立つ威圧的なビルを思い浮かべて、名前はじとりと言った。しかし名前の懸念を透は笑い飛ばす。「まさか!」僕がそんなヘマをするはずがないだろう。これも、いつも通り。透は隙とは絶縁しているけれど、自信とは親友だった。

「ほら、この間コナン君誘拐事件があったろう?その件でちょっとね」

「あぁ……」

 数週間前のこと。どこぞの銀行で起きた強盗事件に端を発する江戸川コナン誘拐事件。名前はその場に居合わせなかったから、透から話を聞いて腰を抜かすほど驚いた。事件よりも、その騒動の収束のさせ方に。

「犯人の車を止めるためとはいえ、自分の車をぶつけるなんてやりすぎだものね」

「でも必要なことだった」

 すっかり修理された愛車のハンドルを切る。その横顔に後悔は微塵もなかった。だから名前は「あなたは重々承知だろうけど」と重々しく切り出してやる。

「スパイっていうのは小さな事件ですら厄介になるものじゃないでしょう」

 スパイは誰しもが法律の遵守に気を配っている。些細な事件がきっかけで警察と接触することがないようにだ。警察というのは洗いざらい調べたがる。そのため、小さな綻びから自分という存在に疑念を抱かれないよう細心の注意を払う。スパイの基本中の基本だ。
 もちろんそんなことバーボンだって理解してる。名前もそれを分かってて言った。つまるところ嫌味だ。嫌がらせだ。意趣返しだ。普段やり込められてる分、ちょっと言ってやりたくなっただけ。さぁ、透はどんな反応をする――?

「おかげで信頼を得られた。十分な対価だとは思わないかい」

 ……脱力。かっこうつけて組んだ腕がだらりと落ちる。「もう……」透に口で対抗するのはやめた方がいいのかもしれない。
 「僕に勝とうなんて10年早いな」ついでに名前の企みも透には筒抜けだった。

「……10年したってあなたに勝てそうにない」

 10年後なんて想像もできないけれど。
 気づけば、スピーカーから流れていたアルバムは1トラック目に戻っていた。それは2分で終わってしまうので、すぐに2曲目が流れ出す。2008年に結成されたロックバンドのセカンドアルバム。アルバム名にもなっているその曲が名前は好きだった。Some nights ――
 ……くしゅん!

「風邪?」

 透はすぐさまそう言った。気づかわし気な声。「まさか」名前は鼻をすすった。しかし2回目、3回目と続く様子はない。

「普段の生活態度からしてあり得ない話じゃないだろう」

「でも最近はあなたがお世話してくれてるし」

「なら誰かに噂されてるのかな」

「……縁起でもないこと言わないで」

 これが組織の誰かだったら……なんて想像だけで名前は顔を顰めた。彼らの口にのぼるなんて。絶対、いい話じゃない。