雨だれ

 彼に対する第一印象は『掴みどころのない男』だった。

『はじめまして、コードネームはバーボンといいます』

 どうぞよろしく。あまりに邪気の感じさせない笑みだったから、釣られて右手を出していた。握って、離して。それから、『油断ならない男』と評価を付け加えた。
 バーボンとの仕事ははっきり言ってやりやすいものだった。尾行による情報収集から、偽装による接触まで。後に組織随一の探り屋と呼ばれるようになる彼は、それらの数々を顔色一つ変えずこなしていった。『見ない顔だな』と不審がられても、小さな嘘で大きな真実を煙に巻いた。バーボンは『スパイにうってつけの男』だった。

『でも嫌いじゃないんだろう?』

 そう聞いてきたのはスコッチだった。何でもお見通しですよって顔。それでも嫌味ったらしくないのは人好きする笑みのせいだろうか。バーボンも同種のものを見せるが、それは仕事に限ってのこと。任務から離れた笑顔は虚飾にまみれていた。とはいえ、それはバーボンを嫌う理由にはならない。だからスコッチの言葉に頷いた。

『バーボンの”それ”は必要なもの。そんなことで私たちが……私が嫌う動機にはならない』

『けどジンのことは嫌い、っと』

『……嫌いじゃない』

 そのやり取りもお決まりのものとなっていた。『はいはい』とスコッチがいたずらっぽく言うのまでがワンセット。ジンについて、スコッチは何度も確かめるがごとく同じ問いを投げかけた。ジンのことは嫌い?と。答えを聞いて、満足して、スコッチはいつも話題を転じていた。この質問に大した意味はないと言外に示して。
 しかしその日は違った。

『お前とバーボンは気が合いそうだ』

 俺もそんなにヤツのことは知らないけどな。そう言って、含み笑い。くつくつと肩を揺らしながら、荒っぽくハンドルを切った。バーボンのそれとは全然違う。
 ……バーボン。貼り付けたような笑みと胡散臭い話し方。しかし彼は大嘘つきではない。取り繕うことが上手く、嘘を疑われても臨機応変に対応することができる。また、第三者を介入させることなく行われる情報収集の才には目を見張るものがあった。彼は彼を知らぬ者に、あたかも以前からそこにいたかのように思わせた。
 だがスコッチの言葉はそういった――表層的なものを言っているように思えなかった。だから考える。バーボンのことを。彼を本能的に好ましいと感じた始まりを。

『たぶん……初対面の時から彼のことは嫌いではなかった、と思う』

『へえ?』

『バーボンは”私”を見てくれた。”私”に手を差し出してくれた。そこに他意があったとしても、悪意はなかった』

 バーボンはごく自然に手を伸ばした。日の下の人間同士のように。恐らく、それが始まり。
 そして、今。

「……寝ちゃった」

 時計は最後に見た時と20分ほどの誤差があった。膝に落ちた本をテーブルに置き、ソファの型に嵌った背中を伸ばす。窓からは小昼のまっさらな光が差し込んでいた。一週間前の天気の荒れ具合が嘘のよう。ベランダでは日の光をいっぱいに浴びて、真っ白なシーツが揺れていた。
 穏やかな時間。平和なひと時。
 なのに、どうしてだろう。名前の中に燻る何かがあった。予感。虫の知らせ。胸がざわつく。

「なにも、あるはずない」

 そう呟いたのは自分に言い聞かせたかったから。でもその声が思いがけず震えて、余計に不安が募る。
 テーブルに放り出したままのスマートフォンを手にして、戻して。席を立って、キッチンに行こうとして、やめて。名前は溜息を零す。なにをやっているの。そんなの、無意味なのに。
 先週言っていたように、透は警視庁に赴いていた。事情聴取。「すぐに終わると思うよ」そう言って、彼は足取り軽く出かけていった。そこに不安要素などない。あるはずもない。
 ――なのに。

「……ただいま」

 どうして、透は泣きそうな顔をしているのだろう。