手を取る


 名前は赤頭巾の手をとることにしました。心にあるわだかまりには見ないふりをして。

 ーーだって、仕様がないじゃない。

 アリスはお茶会を中座するのが鉄則なのです。だから名前も席を立たなくてはなりません。そうしなくては物語は成り立たないのですから。
 赤頭巾は「よかった」と言いました。「断られたらどうしようって思った」ほっとしたって響き。わかりにくいですがその表情も和らいだものになっています。
 それを見て名前も安心しました。「やっぱり間違ってなかったんだわ」これで心安らかに森を抜けられます。

「またな」

 帽子屋と女王様に見送られ、ふたりは歩きます。深い深い森の中。数分もしないうちに名前には右も左もおんなじに見えてきました。もうお茶会には戻れません。標は赤頭巾だけです。

「そんなにかからないよ」

 赤頭巾の足に迷いはありません。ときどき名前の方を見て気遣う余裕すらあります。
 赤頭巾は嘘をつきません。やがて名前の前に一軒の家が現れました。
 赤と茶色でできた木組みの家はどことなく温かさを感じさせます。三月ウサギの家とは大違い。名前は賛嘆の声を上げました。

「素敵なお家ね」

「そうかな」

 家主はといえば、気にしたことなんて1度もないといった風です。「俺一人じゃ広すぎて困ってたんだ」ここで名前は「あら?」と思いました。

「あなた一人なの?」

「あぁ、うん。おばあちゃんは別のとこに住んでるから」

「そう……」

 名前に生まれたのは違和感でした。
 赤頭巾にはお母さんがいたはずです。お母さんにお使いを頼まれなきゃ物語は始まりません。「でもそういうこともあるのかも」お茶会には三月ウサギもヤマネもいませんでした。そういうお話もどこかにあるのかも。そう考えれば違和感を持ったことすら気にならなくなりました。

「好きに使ってくれていいよ」

「ありがとう……、本当に助かったわ」

 赤頭巾は名前の命の恩人です。
 この日から名前は赤頭巾のために働くことにしました。とはいっても日々の暮らしの糧は赤頭巾が用意してくれるので、名前ができることといえば家の雑事ぐらいなものですが。
 それでも十分だと赤頭巾は喜んでくれます。

「今まで気にしたことなかったけど、一人じゃないって案外いいものだな」

 この頃には赤頭巾の穏やかな微笑も見慣れたものになっていました。それを見て名前の胸が温かくなるのも、また。

「わたしも今の生活が好き、幸せって思うわ」

「……そっか」

 名前の言葉遣いにも変化がありました。特に意識したわけではないのです。ただ体がこの世界に馴染んできた、そんな感覚が名前にはありました。アリスらしくなったともいえるのでしょう。

「じゃあ行ってくる」

「いってらっしゃい」

 赤頭巾はほぼ毎日森に出掛けます。それは狩りであったり採集であったり様々でしたが、それを名前が玄関先で見送るのだけは変わりませんでした。
 赤頭巾が出掛けたあとの名前はといえば、家のことと畑の世話以外ですと決まったことはありません。刺繍をしたり読書をしたり。しかし不自由はひとつもなかったのです。なぜって、ここは童話の世界ですから。名前が赤い糸が欲しいと思えば籠にあるし、ディキンソンの本が読みたいと思えば本棚にありました。そう、ここには幸福しかないのです。
 そんな世界でも時間は進み、季節は巡ります。そこが帽子屋の時計との違いでした。
 ある日のことです。木々は葉を落とし、樹冠ではツグミが時折地鳴きするばかりで他はまったく静かなものでした。
 そんな静寂を破ったのはドアが開く音です。名前は繕い物をしていた手を止め、パッと顔を上げました。

「ただいま」

 想像通り。立っていたのは赤頭巾でした。「おかえりなさい」満面の笑みで名前は出迎えます。ここには平穏しかありませんが、やはりひとりよりふたりの方がずっと好きでした。

「どうかしたの」

 しかし赤頭巾はどこか硬い表情をしています。途端に名前は不安になりました。なにかあったのかしら。それとも。想像は嫌な方にしか転がりません。
 「いや……」赤頭巾にしては珍しく歯切れの悪い物言い。黒々とした雲が名前の中で広がります。いっそ突き落としてくれたらよほど楽なのに、なんてことまで考える始末。
 赤頭巾は目をうろうろさせていました。それもやがて決意の光を宿し、唇はぎゅっと引き結ばれます。ーーあぁ、とうとう突き落とされるんだ。名前はスカートを握り締めました。赤頭巾の格好に合わせて作った服すらぬかるみの泥みたいに思えます。
 真っ暗な穴を落ちていく。その覚悟をした名前でしたが、いよいよ手を伸ばされるという段になって、思わず目を閉じてしまいました。
 しかし衝撃はいつまでたっても訪れません。辺りは静かなまま。暗いのは名前が目を開ければ解決する話です。
 何がなんだかわからない。目を瞬かせる名前の耳に、柔らかな声が降ってきます。
 「よかった」名前を見る目はどんな日差しより暖かく、囁く声はどんな砂糖菓子より甘やかなものでした。

「思った通りアンタによく似合う」

 なんの話かと聞こうとした名前の耳元で微かな音がしました。なにかしら。名前は深く考えず物音の主を摘まみ上げます。

「まぁ……」

 それは真っ赤な花でした。厚い花弁にツヤのある葉。その見事な花からは高潔さすら感じます。
 「とってもきれい」名前は感嘆の溜め息を溢しました。そうせざるをえませんでした。

「アンタに似合うと思ってとってきたんだ」

 彼の手には枝ごと手折られた花が数本ありました。今まで背中に隠されていたので気づきませんでしたが。

「でももったいないわ」

 わずかな間自分の髪に挿されていたそれ。まだ瑞々しさがありますが、それも数日で朽ちてしまうのかと思うと名前にはもったいなく思えました。
 それを赤頭巾は否定します。「俺には必要だったから」彼の目には強い意思が宿っていました。その熱に名前の視線は引き寄せられます。「俺の気持ちを伝えるには、これでも足りないくらいだ」そう言いーー赤頭巾は膝をつきます。名前がアッという間もありません。

「俺にはこのくらいしかできないけど。この手をとって、……受け入れて」

 その声は切実な色をしていました。その目は壮絶な色を孕んでいました。
 張り詰めた空気に名前は呑まれます。息の仕方を忘れるくらいに。なんにも考えられないくらいに。ーー彼しか、見えなくなるくらいに。
 捧げられた赫は彼自身でした。それを手に取るとはそういうことです。ーーそれを手に取らないとは、そういうことです。
 ならば名前の答えは決まっています。

「……ありがとう」

 名前は手を取りました。そしてその赫にそっと唇を落としました。
 「……よかった」いつかと同じように、いつかよりもずっと掠れた声で彼は言いました。よかった、本当に。断られたらどうしようもなかった。泣きそうな顔に、名前の方が泣きそうになります。

「断るわけないでしょう」

 名前は赤頭巾に抱き着きます。「そんなの、わたしこそどうしたらいいかわからない」名前には赤頭巾しかいません。赤頭巾に見捨てられたら名前はひとりぼっちです。名前には白ウサギもチェシャ猫もいないのですから。

「うん、でも緊張した」

「緊張したのはわたしの方よ、あなたに捨てられるんじゃないかって怖くて」

 「酷いわ」と抗議しても、胸を叩いても赤頭巾はびくともしません。「ごめん」そう言うくせ、声はちっとも悪びれてません。笑いが混じっているくらいです。

「……もう、」

 最初は怒った顔をしていた名前も、すぐに我慢できなくて相好を崩してしまいました。だって、嬉しくて嬉しくてたまらないんですもの!笑みを抑えていることなんてできっこありません。
 赤頭巾と名前は揃って笑います。静かに、けれど確かに。それからどちらともなく身を寄せ合い、その影は重なりました。物語の最後を飾るにはこれしかないと目を閉じながら名前は思います。
 きっとこの物語はこう終わるに違いない。

 They lived happily ever after.
 ーー二人は末長く幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。