目を閉じる


 ーー名前は目を閉じた。
 聞こえるのは風の音と木の葉の音。お茶会の喧騒ははるか遠く、微かに響くのは赤頭巾の……

 ーーいいえ、違うわ。

 否定した瞬間だった。真っ暗な穴を落ちるばかりだった名前の前で光が弾けた。閃光。白に染め上げられる視界。それはトランプに一斉に飛びかかられた感覚。そんな中でも馴染み深い声と体温だけは名前のすぐ側にあった。
 だから名前はそれにすがった。それは蜘蛛の糸。頼りなく、しかし確実な標であった。

「ーーよかった」

 目覚めた名前を覗き込んでいたのは赤頭巾ーーではない。同じ顔の全くの別人だった。でもだからこそ名前は安心した。「あぁ、よかった。わたくしは間違えずにすんだんだわ」おかしなお茶会はもうどこにも見当たらない。名前はかえってきたのだ。

「戻ってこなかったらどうしようって思った」

 多喜二の声は掠れていた。そしてその顔は怪我をしたときのように歪んでいた。
 「あなたのお陰です」名前の手は彼に掻き抱かれていた。その温もりには覚えがある。ずっとずっと、あのおかしなお茶会の間もそばにいてくれたのだと名前の体は知っている。

「ありがとうございます」

 そのことに泣きたくなるほど感謝した。きっとこの人がいなかったら名前は今ここにいない。あの居心地のいい狂った世界で夢を見続けていたろう。
 けれど多喜二は知らない。どれほどその声が温もりが心強かったかなんて。知らないから、苦く笑う。

「俺はなにもできなかった」

 名前の体はずっと図書館にあったのだと彼は言った。ただ魂だけが本の中に囚われていたのだと。
 そういえば、と思考にかかった霧が晴れていく。そういえば、名前は真っ白な本に潜ったのだった。
 政府から送られてきたのだという白紙の本。アカとアオは言った。「錬金術師がこの中に入ったらどうなるのだろう?」と。「調べないのは研究者としていかがなものか」と。
 そうまでせっつかれて断れる名前ではない。転生した文豪以外が本の世界に入ると気が触れる。そんな実験が過去にあるのは知っていた。承知の上で、名前は白の世界に飛び込んだ。
 その結果がこれだ。

「アカとアオは館長がきつく絞っておくって」

「そう、ですか……」

 本来文豪たちが使用するべき医務室の天井を名前は見上げた。アカとアオを責める気は毛頭なかった。だってこれは名前の選んだ道だ。責任の所在は一ヶ所しかない。自分の力量を見誤ってベッドの上の住人となった自分が一番悪い。
 館長にはあとでしっかり謝っておこう。とにもかくにもまずは一番に謝らなければならないのはーー

「ごめんなさい多喜二さん、ご迷惑をおかけしました」

 いまだ自由に動かぬ体を横たえたまま名前は口を動かした。
 けれど多喜二は静かに首を振る。

「俺はなにもできなかった。アンタを介抱したのは館長だ」

「でもわたくしはあなたがいなければ戻ってこれませんでした」

 名前は目で訴えた。視線の注ぐ先、いまだ強く握られたままの右手。
 「この手があったから、迷わず帰ってこれたんです」だからあなたは命の恩人です。名前が言うと、なぜか多喜二は泣きそうな顔をした。
 どうして、と聞いても答えてくれない。ただ悪いことではないのだとだけ教えてくれた。
 「複雑なんだ」多喜二は眉尻を下げた。

「そう言ってもらえるのは嬉しい。けど、不甲斐なくもある」

 言葉が足りないと名前は思うのだけれど、多喜二にわかってほしいわけじゃないと交わされてしまえば追及もできない。
 仕方ないから名前は他の気がかりを解決することにした。まずは第一に中也と乱歩の行方である。多喜二と一緒に潜書した彼らは無事なのか。

「二人とも元気だよ」

 その言葉に息を吐く。
 「乱歩サンなんかは楽しんでたくらい。中也サンは喧嘩してきたみたいだけど」ついでに今回の本について、アカとアオの下した見解も教えてもらう。普通の有碍書とは異なり、潜書した人間の人格によって物語が作られるということ。これから更に分析を進めていくということ。

「多喜二さんは平気でしたの」

「うん。というか何が起こったのかわからないまま終わってた。いつもよりヘンな乱歩サンといつもより気前のいい中也サンがババ抜きしてただけだし」

「そう……」

 それはきっと名前の知ってる女王様と帽子屋のことだろう。思えば彼らも乱歩や中也にそっくりではあったがやはり中身は少しずつずれていた。あの世界仕様になっていた、ということか。
 じゃああのままあの世界にいたらわたくしも変わってしまっていたのね。その可能性に気づいてーーゾッとした。

「……どうした?」

「いえ、改めて多喜二さんに感謝を」

「いいよ、そんなの。それよりアンタは?」

 そう言ってから、「思い出したくないならいいけど」と言い添えた。「こんなことになったんだ。よほどつらい思いをしたんだろう」彼の考えは容易に見抜ける。優しい人だから。
 「いいえ、」名前は緩く否定の語を紡いだ。

「その反対にすごく……甘美な夢でした」

 夢。そうとしか言いようがない。黄金の昼下がり。幸せな夏の日々。終わらない夢。ーー尽きることない幸福。それは抗いがたい誘惑だった。きっと、自分ひとりなら。
 「夢?」怪訝そうな顔に、名前は微苦笑で返した。正直に話してしまうのは些かばつが悪い。だからその笑みには羞恥が色濃く滲んでいた。
 あまりに都合のいい夢は、もしかすると名前の願望の発露だったのかもしれない。アレもソレも、全部名前の欲から生まれたのかも。そう考えた結果、口をつぐむのは当然といえよう。

「どんな夢だったんだ?」

 なのに多喜二は引かなかった。純粋な、濁りのない目。真正面からのそれに気圧され、口ごもる。
 「それは、」……なんと説明すればよいのだろう。
 言いたくないと言えば多喜二は深追いしてこない。きっと。でもそれは彼に対して不誠実がすぎる。
 結局名前は洗いざらいーーまではいかないが、ことの次第を語ることにした。奇妙なお茶会。アリスの役を振られた名前。
 多喜二にはそれが良いものだとは思えなかったようだ。

「訳のわからない話だな」

 しきりに首を捻る姿に、「そうですね」と頷く。確かに訳のわからない話だ。狐につままれたような出来事。やたらとふわふわとした、地に足のつかない感覚。それこそが夢が夢である所以だ。

「だからこそわたくしにはそれが心地よかった。現実から遠ければ遠いほど素敵に思えた」

 それこそ何も知らない幼年期のように。後先考えずウサギを追いかけられるのは子供の特権だ。もう名前には穴に飛び込む勇気はないし、不思議を受け入れられるほど純朴じゃない。
 それが今は無性に切なかった。

「……アンタは夢の方が幸せなのか?」

 多喜二の声には侮蔑も憐憫もなかった。だから名前も笑って否定することができた。
 「いいえ、」失うということは何かを得ることでもある。どちらもなんて土台無理な話だ。それに大人になるということが悪いことばかりでないのも今の名前は理解していた。

「戻ってこれてよかった、心からそう思います」

 繋がれたままの右手。この温もりを失わずに済んでよかった。ーーこの優しい人の瑕にならなくて、よかった。
 しかし多喜二の顔に笑顔はない。それどころかどこか悩ましげですらあった。
 今度は名前が首を捻る番である。気になる、不安になる。それでも急かすことはできず、平坦な時間ばかりが過ぎていく。沈黙は長く、永遠のように感じられた。
 多喜二は伏し目がちに口を開いた。「もしも、俺が、」彼にしては珍しく、言葉を知らないみたいな話し方だった。それにも驚いたのだけれど、それ以上に続く言葉に名前は目を見開いた。

「俺が、赤頭巾と同じことを言ったら……、アンタがこっちにいる理由になるんだろうか」

 それは独白だった。喉の奥から絞り出すような声音だった。
 懊悩する声に、名前は言葉を失った。どういうこと。停止した思考とは別のところで、名前の記憶が目まぐるしいほどの速さで巻き戻される。赤頭巾。そう、彼は赤頭巾と言った。赤頭巾ーーその赤い瞳を思い出す名前の手が、同じ顔の男に引き寄せられる。

「名前、」

 名前を呼ばれたのは初めてではない。なのに名前の心は震えた。切々とした響きに息が詰まる。浮かされたような、憑かれたような。初めて見る顔に、名前の意識は奪われる。ベッドの柔らかさも薬品の臭いもーー夢の残滓も。すべてが彼方にあった。名前にわかるのは眼差しの熱と指先に触れる唇の赤さだけだった。

「永遠なんて俺にはないけど、それでも俺と共に歩いてほしい」

 乞うるように口づけて、それから多喜二は言った。冗談なんかじゃないのは纏う空気でわかった。
 それでも名前は思わずにはいられない。

「わたくし、まだ夢を見ているのかしら」

 呆然とした呟きに、多喜二は片頬だけで笑った。それは困る、と。

「そしたらアンタを現実に帰さなきゃいけなくなる。……俺には無理だ」

 赤頭巾も同じだったのかな、と彼はひとりごちた。「もしそうなら申し訳ないことをしたな。だからといって譲るのはできないけど」今日の彼はよく喋る。普段から無口というわけではないけれど、それでもここまで饒舌になるだなんて。
 恋は人を変えるってほんとうなのね。ぼんやりと浮かんだ思いに、名前の胸は跳ねた。多喜二が、ーーわたしを。
 それこそ夢のような話だ。囚われのお姫様を救う王子様。お姫様は王子様と末長く幸せに暮らしました。そんな、童話のような。
 あり得ない、と一瞬思った。でもそれは彼に対する裏切りだと早々に打ち消した。違う。名前がすべきなのはそんなことじゃない。
 ーーわたし、は。

「……夢でもいいって思うわ」

 名前は身を起こした。全身に残る気だるさも今は気にならなかった。ただ募る言葉だけが名前の背を押していた。

「夢でも現実でもいい、多喜二さんがーー他でもないあなたが、隣にいてくれるなら」

 驚いたのはほんの少しの間だけだった。すぐにその目は緩み、唇は弧を描いた。「名前、」その頬に、名前は手を添える。ーー温かい。
 幸せだと思った。理由も理屈も忘れて。ただそれだけが名前の中にあった。
 彼のいう通り、ここに永遠なんてものはない。だからいつかこの時のことを後悔する日が来るかもしれないし、そうでないかもしれない。多喜二にも名前にも他の誰にもそれはわからなかった。だってここは夢でも物語でもないのだから。
 でももしこの日のことを文章にするなら、締め括りにはこの言葉が相応しいだろう。

 But that's another story.
 ーーそれはまた、別のお話である。