司書と朔太郎と恋するバースディ


 姿見のなかには見慣れた顔がある。重たいばかりの黒髪に何を考えているのかわからない黒い目。枯れ木みたいな手足はおよそ女性的とはいいがたい。

 ーーなんて可愛くない女だろう。

 名前は自分の顔が嫌いだった。冷たい目、学生時代言われた言葉は今も奥底で時折首をもたげてくる。そしてそんなことばかり思い出す自分にも嫌気がさす。仕事をしているときは容姿について考えることもないからよかったのだけれどーー今は別だ。
 これが艶やかなブロンドだったら。あるいは鮮やかな赤毛だったら。ローズピンクのローブ・ド・クールにだって、エメラルドグリーンのローブ・デコルテにだって気負わずに済んだかもしれないのにーー。
 そこで名前は自分の思考をわらった。馬鹿げてる。上っ面だけ取り繕ったって仕様がないわ。

「……いつまでそうしているつもり?」

 背後から投げ掛けられた声に思わず肩が揺れる。「……秋声さん、」理知的な目をした彼は、静かに名前を見下ろしていた。

「ドレスなんてなんだっていいんじゃない、彼だって気にしてないだろうし」

「じゃあ秋声さんはわたくしがピンクや淡い黄色のドレスを着ていても気にならないっていうのね、それがプリンセスラインだとしてもマーメイドラインだとしてもーー」

 鏡越しに反論して、名前はかぶりを振った。「ごめんなさい、あなたに言うことじゃあなかったわね」白のシュミーズドレスは驚くほど滑らかなのに、今の名前には鬱陶しいだけだった。
 「そうだね、僕に当たられても困る」秋声はいつもと変わらぬ調子で言った。彼はいつもそうだ。晴れでも雨でも初めて会ったときも今でもずっと変わらない。それにひどく救われている。

「もう時間ですの」

「いいや、まだ。……でもそろそろ準備を始めた方がいいだろうね」

「……そう」

 名前は溜め息を吐いた。
 これからの予定が憂鬱ーーだからではない。むしろ名前の方からお願いしたくらいだ。「貴賓室がとれましたの、よかったらご一緒してくださらない?」なんて。震えそうなのを抑えてまでして取りつけた約束。なのに溜め息が出るのはただ名前に自信がないからだ。彼の隣に立つという、自信が。

「ねぇ、秋声さんはどんな女性がお好み?」

 名前は部屋にあるいくつものトルソーを指した。「まだ色も形も決まっていないの」その言葉通り、飾られるだけのドレスたちは上品なものから派手なものまであった。中には幾度も袖を通していないものも。全部全部、今日のために家から送ってもらったのだ。
 これまでに時間はあった。いくらでも。ただ名前が向き合うのから逃げていただけで。
 だから秋声に呆れられても何も言えない。言い訳なんてできるわけなかった。どうせ彼には見破られてしまうし。

「作品を考えるならコルセットをしめるべきかしら。わたくしはあんまり好きではないのだけれど」

 言いながら、名前は自分が答えを求めているのではないことを理解していた。ただ何か話していたい気分だった。
 「濃い赤はどうかしら」名前はひとつに触れた。腰から下はバッスルでもりあげる形をしている。大きく開いた襟ぐり。対照的に足首まで覆う裾はクラシカルな作りになっている。サテンの生地が肌に吸い付くようだ。
 炎の赤。激情の赤。ーー椿の、赤。

「背伸びしすぎじゃない?」

 指摘に、名前は手を下ろした。

「……そうですね」

 その通りだわ。
 ドレスがどれほど美しくたって、どれほど今日に相応しくたって、今の名前では釣り合いがとれないだろう。それは外見の話ではない。中身の問題だ。

「…………」

 秋声は項垂れた名前の頭をそっと撫でた。温かな手。慈しむ手。親が子にするそれに近い手つき。体から力が抜けていくのがわかる。

「……僕は白がいいと思うよ」

 秋声の目の先。そこには白のドレスがあった。コルセットをつけないタイプのもので、まろやかな曲線を描いている。腰から下は何枚もの層になっていて全体的に柔らかな印象のドレスだった。
 ーーでも、地味じゃあないかしら。
 一瞬そう思ったのだけれど、名前はこくりと頷いた。秋声の観察眼は確かだし彼は嘘をつかない。なら信じる以外ないだろう。

「ありがとう」

 微かに浮かべた笑みに、秋声は何か言いたげな顔をした。
 けれど結局彼は何も言わず、「いってらっしゃい」と名前を見送った。

 オペラハウスはきらびやかに着飾った人々で溢れていた。今日上演されるのはこれまで数えきれないほど演じられてきた1850年代のものだ。名前も何度か見たことがある。
 ……のだけれど。

「今日は誘ってくれてありがとう……」

 はにかみ笑う朔太郎を前にすると落ち着かない気持ちにさせられる。
 向かい合う形になっている貴賓室は薄暗がりといえど相手との距離が近い。おまけにほぼ密室のようなものだ。そんな当たり前のことすら名前の頭からは抜け落ちていた。

「それにこれも」

 朔太郎は目を落とした。彼の手にある小さなオペラグラス。それは朔太郎の誕生祝いに名前が贈ったものだった。

「そんな、大したものじゃありませんわ。観劇だってわたくしが観たくて誘っただけですもの」

「……うん、それでも嬉しいよ。こんな風に祝ってもらえると思わなかったから」

 壊さないように慎重に使うね、と真鍮製のハンドルを大事そうに撫でた。「本当は大切にしまったままにしておきたいけど」その言葉だけで名前の胸はいっぱいになる。
 喜んでもらえてよかった。本当に、心から思う。散々頭を悩ませたドレスに彼が触れずとも、これが名前の片想いだとしても。

 ーーそう、思っていたはずなのに。

 第1幕、第5場。壇上では女が歌っていた。真実の愛とは不幸なものなのか、と。乱された心のまま喉を振り絞っていた。

「…………っ」

 名前は息を飲んだ。ーー知っている。理解できる。彼女の気持ちが。苦しみと喜びを与えるその熱情を名前はよく知っていた。
 女は名前とは似ても似つかない艶やかな大人の女性だ。アイボリーのベルラインドレスが美しく女を飾っている。でも名前は女に自分を重ねた。自分のことを歌っているように思えた。おかしな話だ。これまでそんなこと思いもしなかったのに。
 ーー真実の愛。
 名前はちらりと視線を流した。向かいでは朔太郎がオペラグラスを片手に身を乗り出すようにして舞台を見ている。その目は名前を映していない。ーー当然だ。今の主役は彼女なのだから。
 けれど名前は今すぐ彼に見つめてほしかった。その海のように深く凪のように穏やかな目に、自分を受け入れてほしかった。
 だから客席が拍手で埋まり、幕間の時間となった時には堪えきれなかった。

「朔太郎さん、」

 呼び掛けに、彼は一瞬狼狽えた。あら、と疑問に思う間もなく、名前はぎょっとした。
 オペラグラスから離された朔太郎の顔が、なぜだか泣きそうに見えたのだ。

「どうなさったの、」

 慌てて名前は彼の手をとった。それにも彼はびくりとする。大袈裟なまでの反応。朱をはいたような頬。
 どこか具合でも悪いのだろうか。そんな考えに至り、先ほどの激情は水をかけられて嘘みたいに霧散した。触れた手は布地越しでも温かい気がするし、泣いてるように見えたのは熱で目が潤んでいるからかもしれない。
 「帰りましょうか?」訊ねるが、朔太郎は首を振る。大丈夫だ。そう言いたいのだろう。なのに名前が伸ばした手は力強く掴んで離さない。それはすがるような手だった。

「朔太郎さん?」

「……ぁ、ごめん」

「いえ……」

 朔太郎は何も言わなかった。でも何かを言いたげではあった。それがなんなのか名前には見当もつかないのだけれど。
 彼が口を開いたのは次の第2幕が終わったあとだった。

「……名前もいつかは遠くに行ってしまうんだよね」

 ぽつり。独り言のようなそれを名前は掬いあぐねた。遠くに行く?それはどういう意味だろう。
 「どこかに行く予定はありませんけど」なにかの比喩だろうか。頭を働かせようとしたのだけれど握られたままの手が気になってそれどころではない。そんな場合じゃないのよ。そう叱りつけても心は言うことを聞いてくれない。おかげで千々に乱れたままだ。
 朔太郎は弱々しい笑みを浮かべた。

「……うん、そうだね」

 ごめん、と彼は言った。舞台を見ていたらそんな気持ちになっただけだと。
 名前は内心首をかしげた。壇上で演じられているのは男女の恋と別れだ。名前に結婚の予定はないし病に冒されてもいない。そう伝えても、彼はさびしげに笑うばかりであった。

「どうしたら信じてくださるの?」

「……椿の花をくれたら、かな」

 椿の花?なんのことかしら、と少し考え、名前は思い出した。すっかり彼方に消えさっていたけれど、そういえば1幕はそんな話だった。椿の花は再会の約束、その証。この花が萎れる頃にまた会いましょう。そんな約束を主人公は交わしていた。

「そんなのいくらでも差し上げるわ」

 言ってから、でも今すぐあげられはしないのだと口をつぐんだ。これでは真実味に欠ける。
 どうしよう、俯いた名前の目に小さな花が飛び込んできた。それはショールだった。ショールの隅にあしらわれた小さな花の刺繍。
 「これではダメかしら」誓いの証にはどうにも心許ないけれど。

「これが枯れない限りわたくしはどこにも行きませんわ」

 朔太郎の目が見開かれる。
 「いいの?」訊ねる声は喘ぐようだ。しかし名前が首肯すると目元を和らげた。ありがとう。そう言う声はかわいそうなくらい震えている。

「約束だからね」

 ーーひとりにしないでね。
 それはこっちの台詞だと名前は思った。のだけれどそれを言う勇気はまだない。
 それにもう胸がいっぱいだった。彼がなにを案じているのかはわからないけれど、必要とされているのはわかった。それがどういう意味であれ、名前には歓迎すべきことだ。
 有頂天になっていた名前は帰宅するなり秋声に抱きついて耳打ちした。彼にだけ聞こえるように、秘密を打ち明けるような距離で。

「あとでお時間ちょうだいね、とっても話したい気分なのよ」

「わかった、わかったから離れてよ、重いんだって」

「まぁ、ひどいわ」

 名前はくすくす笑って身を翻した。なんだか踊り出したい気分だ。こんなときにはワルツがいいわね、メヌエットなんかじゃ物足りないわ。鼻歌すら奏でてしまうんじゃないかってくらいに名前は浮かれていた。だから残された二人の会話なんて知るよしもないのだ。


「……その剣呑な目付きやめてよね、僕にそのつもりはないんだから」

 秋声は溜め息を吐いた。もう癖になっている。なんだって僕の周りはこうもめんどくさいことばかりなんだ。今も昔もそうだ、まったく……そう愚痴愚痴言いながらも世話焼きなところのある彼はつい口を出してしまうのだ。

「……でもずいぶん仲がいいよね。出掛ける前だってギリギリまで名前の部屋にいたし、彼女のドレスを見立てるのも得意なようだし」

「それは君のことを、」

 恨みがましい声に言い返しかけて、秋声は口を閉ざした。言ってしまうのは簡単だし、言ってしまった方が楽だ。悪いようにはならないだろう。
 でもそれじゃあ意味ないよな、と頭を掻く。まったく、本当にめんどうな話だ。さっさと収まるところに収まればいいものを。
 朔太郎の目が続きを促しているのを無視して、秋声は歩き出した。呼び止める声には振り返らずに答える。

「天女の羽衣かってくらい大事にしてるけど、そんな布切れだけで本当に君はいいわけ?」

 返す言葉はなかった。
 やれやれ、これで話が進めばいいのだけど。とりあえずは名前の興奮を冷ましてやらないと。朔太郎のことは彼の親友あたりが回収してくれるだろう。出掛ける前、身支度の時にもあれこれ世話を焼いていたようだし。
 そんなことをつらつら考えながら秋声は階段を上った。呆れるほど鈍いヒロインの元へと。




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演目は椿姫です。