司書と直哉と秋の月


 コン、と音がした。それは何かがぶつかるような音だった。

「……?」

 なにかしら、と名前はペンを止めた。だが、ぐるりと見渡してみても室内はしんと静まり返っている。特に変わったところはない。実篤から貰った絵は壁にかかっているし、光太郎から贈られた彫刻もキャビネットの中で鎮座している。では外だろうか。名前は書き途中の書類を置き去りにして立ち上がった。
 バルコニーに続く掃き出し窓には既にカーテンが敷かれていた。その先の景色は開けずともわかる。いつもと変わらぬ闇が広がっている。……はずだったのだけど。覚えのない影が落ちているのに気づいて名前は外に出た。

「……靴?」

 そう、それは靴だった。靴以外のなにものでもなかった。片足分の靴がバルコニーに転がっていたのだ。
 名前は拾い上げた靴をまじまじと見た。けれどどこからどう見ても名前のじゃない。だって、あまりに大きさが違いすぎる。このサイズは男物だろう。じゃあ誰のかしら、……そういえばこんなのどこかで見た、ような……
 しかし記憶を辿りきる前に正解が名前の前に降ってきた。これは比喩ではない。本当に、文字通り"降ってきた"のだ。
 最初は声だった。「あ」か「お」か、とにかくそんな感じの音が名前の上でした。だから名前は反射的に頭を上げた。ちょうど空を見るような動きで目をやった。浮かぶは満天の星ーー、それよりもずっと近くで、なにか、影が、

「……っ、と」

 名前が目を凝らすより早く。"それ"は降ってきた。と思ったらすぐにぐんと影は伸びて、名前は思わずたじろいだ。状況に、展開に頭が追いつかない。ポカンと口を開けたまま、名前が何か言うより先に"それ"は、人影は、ーー志賀直哉は、「よう」と笑った。朝食堂で会ったときのような気軽さで。あるいは廊下で擦れ違ったときみたいに。とにかくここが夜のバルコニーで、自分が今どこから現れたかなんてちっとも気にしていない雰囲気で、いつもの片手を軽く上げる挨拶をしてみせた。いい夜だな、なんて言って。

「え、え、」

 ーーどうして?
 疑問ばかりが浮かんでいる名前の手から直哉はするりと靴を取り上げた。「よっ、と」どうやらそれは直哉のだったらしい。「いや、柵を乗り越えたとこで引っかけちまってな」照れ笑う彼。そもそも柵を乗り越える云々が名前には理解できない。そこからして、"どうして?"と聞きたいくらいだ。どうしてそんなことを。あぁでも、この人を常識に当て嵌めることが間違いなのかもしれないわ。だって、神様なんですものーー。

「……危ないわ、こんなこと」

 考えた末、名前に言えたのはこれだけだった。「あなたにもしも、なんて。……おそろしい」身震いする名前に、しかし直哉は目元を和らげた。

「優しいな、名前は」

「当たり前のことでしょう」

「いや、武者のヤツは心配なんざしてくれないぞ?」

「……あの方と比べないでください」

 それもそうだな、と白い歯が光る。その様子では発言の真意は届いていなそうだ。実篤と比べないで。だってわたくしはあの方のようにはなれない。……あなたの、隣に在り続けることなんて。
 知らなくていいと思う。名前の不安など。知らないで、気づかないで、ーー笑っていて。彼の笑顔が名前は好きだった。どれほど劣等感に苛まれようとも。それでも今の立ち位置を選んだことに後悔はない。一生を痛みに蝕まれても構わないとさえ思っている。

「なぁ、今時間あるか?」

 だからこんな問いかけ無意味だ。たとえ時間がなくたって今の名前ならどうにでもする。名前の時間をこの人が望む、これほどの至福がこの世にあるだろうか!

「ええ、もちろん」

「本当に?……あぁ、よかった」

 ちらりと室内を視線で気遣って、それから心底安堵したって風に息をつく。その姿に名前は内心首を捻った。何か用事でもあるのかしら。特別なことはなにもなかったはずだし、やり残した仕事だって彼にはないはず。そう考えて、けれど名前が疑問を口にすることはなかった。時間はあるか、と訊ねたくらいだ。用件があるのは事実、その内容を名前から急かすのは彼に対して申し訳がない。名前に忘れていることがあるなら失礼だ、というのもあるけれど、急かしているようなのも嫌だった。

「じゃあこれから少し、眠るまでのお前の時間を貰うとするかな」

 神様は王子様みたいに名前の手をとる。まるで舞台の1シーンのようね。見惚れるというより呑まれる、それほど彼の緑の目は魔的だった。翠でも碧でもない。高貴な自然の色。相反するそれは、不思議と彼らしかった。
 王子様は紳士な生き物だ。懐から出したハンカチをさっと広げて「どうぞ、お姫様」なんて言ってのける。白地に金の刺繍。王子様の私物はハンカチすら気品が漂っている。それでもこの場面では遠慮する方が無作法だろう。
 名前は「ありがとう」と気にした素振りを見せず甘えることにした。

「隣を失礼」

「いいえ、どうぞ」

 そうなるともう気になるのは左半身だけになる。正確には、隣にある熱に。汚れてしまう真っ白なハンカチへの罪悪感は塗り替えられてしまった。きっと思い出すのは熱が過ぎ去ったあと。ひとり眠る前の話だ。
 そんな悪い子の名前はほうと息をついた。肌寒い、けれど息が白くなるほどじゃない。
 そうはいっても王子様は紳士で計画的なので用意してあったらしいブランケットを名前に貸してくれた。さらりと、自然に。名前が遠慮する余地などなく。

「ありがとうございます」

 さっきからお礼ばかりだ。なんて思いながら、与えられたばかりのブランケットを半分返した。同時にさりげなく身を寄せる。迎えるゼロ距離。肩と肩が重なる。一瞬の戸惑い、震え。それを見ないふりして、「この方が暖かいでしょう?」と言い訳をする。いや、真実その通りではあるのだけれど。しかし名前の心情としては言い訳と言った方が正しい。

「……そうだな」

 珍しく歯切れの悪い返事。それを「おや?」と訝る間もなく彼はするりと脱け出す。あるのはいつも通りの穏やかなおとなの顔。

「……手が届きそうなくらいだと思わないか?」

 彼の瞳に映るのは闇夜の主だった。主君たる月は緑の瞳の奥深くで光っている。それから満天の星空でも。視線を移し、ーー名前は息を飲んだ。

「……ええ、ほんとうに」

 それ以外言いようがなかった。きれいだ、うつくしい。そんなありきたりでつまらない感想しか浮かんでこない。あぁ、でも。

「直哉さんみたい」

「俺?」

「ええ」

 名前は緩く笑んだ。

「だってとっても大きくて、手が届きそうなくらい大きくて。なのに途方もなく彼方にあるだなんて。直哉さんみたいでしょう?」

 直哉の言う通り、今宵の月はなぜだかいつもよりずっと大きく見えた。空から落っこちてきそうなくらいの大きさ。じっと見ていると本当に落ちてきているんじゃないかって錯覚してしまう。あるいは、名前の方が落ちていっているのかもしれない。月の水底に、緑の深淵に、呑まれてしまいそうになる。大昔月が人を狂わせるといわれていたのも案外嘘ではないのかも、なんて。
 そんな風に名前は考えていたのだけれど。直哉ときたらその自覚がないようで。「そうか?」と視線を宙に投げた。

「そんなこと言うの名前くらいだ」

 考えをめぐらしたかと思えば、くつくつと笑い出す。「俺はそんな大層なヤツじゃないよ」名前の頬を擽る指先は少し冷たかった。

「でも神様でしょう?だって直哉さんはこんなに美しいんだもの、神様に違いないわ」

 美しきものに神は宿るのだと学んだことがある。そうして人々に生きよと囁きかけるのだと。その知識は直哉との出会いで確信へと至った。だから名前は志賀直哉が真実"神様"であることを疑わない。名前の神様。名前の唯一の神様。
 そう説明すると直哉は一層笑みを深めた。

「それなら名前は俺の神様になってくれるんだな」

 目の奥で瞬くのはからかいの色。それをみとめて……みとめていても名前は言葉に詰まる。
 「それは、」イエスということは傲慢だ。じゃあノーと言えばいいかって?……神様を否定できるわけないじゃない!

「……ズルいわ」

 唇を尖らせる。ズルいわ、本当に。

「そんな意地悪を言うためにわざわざいらしたの」

「いいや?」

 機嫌をとるように彼の手が頬から髪に移る。白い指に弄ばれる流したままの黒髪。それは今の名前そのものだった。けれど不満はない。その声も手もどちらも心地がよかった。

「今日の俺はそうだな……さしずめロミオといったところか。愛を誓いに来たわけだな」

「あら、空から降ってくるロミオなんてわたくし知らないわ」

「そうだな、ロミオは今日限りだ」

 拗ねたふりも耐えきれず、名前は声をあげて笑った。

「ずいぶんお転婆なロミオもいたものね」

 冗談を返しながらもその目尻は赤い。愛。誓い。名前は永遠なんて信じない。けれど、神様の言葉は自然と染み渡る。
 「そうだ、あんたのロミオはお転婆なんだ」笑いながら、神様は月を指す。

「だからあそこに行ってみたりなんかもしてみたくなる」

「月に?」

「あぁ。……この時代では可能なんだろう?」

 確かにそうだ。月面旅行は稀有なことではない。彼が望めば今すぐ……とまではいかずとも用意はできるだろう。名前はそちらの方面に明るくないが、学友にひとりその道に進んだ者がいる。伝を辿れば彼の望みを叶えるのは難しい話ではなかった。
 それらを簡単に纏め、「頼んでみましょうか?」と名前は聞いた。しかし言った当人が首を横に振る。「いいや」髪から肩、腰へと至った手が名前を引き寄せる。ゼロ距離からその先へ。傾く体。頭が肩に寄りかかる。彼の肩へ。

「今望んだら意味がない。今望んだら……あんたは着いてこないだろ」

「それは、」

 そうだ。名前は図書館を預かる身。忙しい館長の不在時に図書館を留守にするわけにはいかない。図書館を、蔵書を守るのが名前の仕事だ。
 名前は目を伏せた。ごめんなさいと言うのは正しくない。そんなのを彼は求めていない。わかっていて、何も言えない名前は目を伏せるしかなかった。
 「いいんだ、それで」直哉は宥めるような所作で名前の頭に唇を落とす。いいんだ。神様の赦しに強張っていた体を解く。それでも何も言えず、おずおずと見上げると数センチの距離にある端整な顔が緩んだ。

「でもいつかは、って思う。いつか、この任務が終わって、そのさきで」

 そのさき、と彼は言った。そのさき。その響きは将来と同じ色をしていた。

「さき、」

 そんなこと、考えたこともなかった。名前にあるのは今ばかりで。先の自分など不連続で曖昧なものでしかなかった。
 なのに、この瞬間。もやが形になる。不連続から連続へ。今から未来へ。名前は夢見てしまった。特務司書としての仕事を終えた自分を。ーーその隣に立つ彼の姿を。

「……っ」

 途端に込み上げたのは羞恥。何を分不相応な。頭では理解している。理性は働いている。けれど、でも。

「……やっぱり月なんて見るべきじゃなかったんだわ」

 月は狂気。月は魔物。わかっているのに、引き返せない。
 神様は笑った。「なら俺にとっては僥倖か」偶然もなにもないくせにそんなことを言って笑う。名前が睨めつけても効果はなし。むしろより一層愉快げに肩を震わせる。

「……幸せなんて、わたくしのセリフよ」

 名前は少しためらって、でも今度は自分から直哉の肩に体を預けた。それだけで彼が心から嬉しいと言いたげに相好を崩すものだから、胸が掴まれて泣きそうになる。なのにちっとも嫌じゃない。むしろこの甘やかな痛みがいとおしい。
 名前は目を閉じた。今夜見るであろう夢が名前には既に予見できた。叶うなら彼の見る夢もそうだったらいいーーなんてワガママも直哉なら許してくれるだろう。名前の神様は一等優しいのだから。