ピグマリオン

 透は笑った。ぐいっと無理に口角を引っ張られてるみたいに。錆びた笑み。「なんだい、ヘンな顔して」変なのはあなたの方よ、とはとても言えなかった。
 ジャケットとスヌードを取っ払っても透はよそ行きの顔をしていた。「まいったよ、こんなに時間を取られるとは思わなかった。彼らは随分と詮索好きなようでね、やれ、どれくらい修理にかかりましたかとか、探偵ってのは普段何してるものなんですかとか、まったく、そこらのご婦人方よりも熱心ときてる!でもおだてて乗せてやれば御しやすくなるのは共通してるね、」彼は名前の相槌すら待たない。話すのをやめたら死んでしまうってくらい、ひっきりなしに口を動かす。「あぁ、名前は本を読んでたんだね。なかなかいい短編集だろう?なんというか、突き放したような文章だけど温かみがあって、彼には独自の世界があるんだろうね。名前はどの話が面白かった?僕はね……」
 台所に立ちながら、名前は考えていた。透の身に何が起こったのか。想像を巡らせたけれど、分からなかった。だって、名前は”彼”のことを知らない。好きなもの、嫌いなもの。経歴から趣味、思想に至るまで。日本に生きる彼のことを何も知らなかった。
 沸騰したお湯でポットを温めながら、名前は力なく首を振る。その間も透は喋り続けていた。とりとめのない話。彼は彼自身何を話しているのか理解していないのかもしれない。あるいは、どうでもいいか。
 ……スコッチなら、こういう時どうするだろう。
 考えているうちに適温に温まったポット。傾けると、中身が流れ出す。ざあざあ。お湯は排水口に吸い込まれていった。その様をぼうっと眺める。不必要なもの、いらないもの。まるで今の名前みたいだ。
 この感覚には覚えがあった。あのおぞましい――つまりはスコッチがもうこの世にいないという――報せが舞い込んできた日。あの日もよく晴れていた。名前はサクラメントから帰るところで、報せは電話越しにもたらされた。『重要なのはこんな些末な連絡の方じゃないわ。つまりは、そう、あなたがどっち側かっていう話――』あの日以降、しばらくは監視の目が離れなかった。信頼を取り戻すのに1年。その間の任務は名前を試すための、言い換えれば胸糞の悪い仕事ばかりやってきた。それでもスコッチを喪ったことに比べれば痛みなどあってないようなものだった。
 当時、名前が泣くことはなかった。あるのは喪失感。そして彼の役に立てなかったという自責の念。それらに突き動かされ、名前は今ここにいる。
 透も、何かを喪ったのだろうか。
 名前はティーセットをリビングに運んだ。ソファに腰かけた透の前にカップを置いて、薄黄を注ぐ。広がる、ほんのりと甘い果実の香り。「カモミールティーか」透は目を閉じ香りを吸い込んでから、一口飲んだ。「うん、おいしい」にっこり。ソファ一人分の距離しかないのに、その笑顔はどこか遠いものだった。
 透はすっと視線を走らせ、ごく自然に窓の外を見て、

「今日はよく晴れてるね。ここのところあまり天気がいいとは言えなかったからとても清々しく感じるよ。そうだ、せっかくだし外に出たら?」

 一息。
 名前はぐっと唇を噛んだ。「……透は?」答えは想像通り。「僕はちょっと疲れたから休んでるよ」あぁ、透は一人になりたいんだ。そう、分かってしまった。名前もおんなじだったから。
 ここは了承するべき場面だろうか。どうするのが最適だろうか。スコッチ、あなたならどうする?問いかけても、彼は答えてくれない。思い出せるのは言葉だけ。できることなら助けになってやってほしい。名前だって、そうしたいと思う。
 首を縦に振るか横に振るか。頷けば、きっと透は安心する。一人で泣くのかもしれないし、黙考するのかもしれない。どちらにせよ、名前が帰る頃には透もすっかり消化してるだろう。いつも通り。名前は透の忠実な犬でいられる。
 ……でも、それでいいの?

「――いやだ」

 透は瞠目した。その目に映る自分。意志のある人間。それを見て、はっきりと自覚する。

「私は、あなたのことが知りたい」

 透のことが知りたかった。彼が好きなもの、嫌いなもの。経歴から趣味、思想に至るまで。

「……知って、どうする」

 低い声。唸るようなそれが喉から絞り出される。細められた目は見たことない冷たさを持っていた。「その情報を誰かに……あぁ、ベルモットか、そうだな、君は随分と彼女に懐いているようだし」温度のない顔。真冬に冷水を浴びせられたようで、名前は背を震わせた。それでも引くわけにはいかない。

「誰かの頼みなんかじゃない。私は私の意思で訊ねてる」

「それは”名前”の仕事じゃない」


 ならば”名前”の仕事とはなんだろう。安室透の従妹で、帝丹高校に通って、ありふれた日常を過ごして。家族ごっこの果てに、透は何を求めているのだろう。
 分からない。何も。だから名前は知らなくちゃいけなかった。透が傷ついている原因、そのすべてを取り払うために。できることなら助けになってやってほしい。その約束のためだけじゃなく、名前が人として生きていくために。

「”名前”の仕事じゃなくても、”私”は知りたい。知らなきゃ、あなたの剣にも盾にもなれない」

 名前は手を伸ばした。身構える透の手に自身のそれを重ね合わせる。自分のより大きく節くれだった手。触れて、実感する。この温もりを喪いたくない。

「……約束があったの、スコッチと」

 スコッチ。その名に、透は異常なまでに肩を震わす。色を失くした相貌。わななく唇。「スコッチ、だって……?」名前は首肯した。

「そう、スコッチとの約束。あなたの助けになってくれ、と。彼は私に言ったの」

「そんな、どうして」

 透は明らかに動揺していた。疑われるのは覚悟していたから、その反応に名前は目を見開く。それでも言葉を続けた。

「彼がなぜ私を選んだのかは知らない。結局、私は彼の役には立てなかったし」

「だから、僕にってわけか」

 透は口の端だけで笑った。いびつな笑み。そんなものをさせたくなくて、咄嗟に名前は叫んだ。否定の言葉を。

「それだけじゃない、もう、それだけじゃないの。私、今は自分の意志であなたの助けになりたい。あなたの猟犬になりたい。そう思ってるの」

 ……たとえ、組織を裏切ることになっても。
 付け足されたそれに、透は息を呑んだ。「ほんとうに……?」囁き。名前は大きく頷いて、彼の手を強く握りしめた。

「だから教えて、あなたを傷つけたものを。私、なんだってするから」

 じっと見つめると、透はゆっくりと瞼を下ろした。数秒か数分か。しじまの後に、彼は極力感情を排した声で話し始めた。

「……古い友人を、亡くしたんだ」