秋声と司書と永遠と刹那


 視界のすみで長い髪が揺れる。いつも、いつも。みどりの黒髪が、絹糸のような黒髪が、視界のすみで踊る、踊る、踊り続ける。
 あぁ、世界が反転するーー


 名前はいつも胎児のように丸まって眠る。そうしているときの彼女はまるで生きていないみたいだった。
 影を落とす長い睫毛。桃の実のようななめらかな頬。薄く開いた珊瑚色の唇。すっと伸びた細い首。折れそうに華奢な手足。そして、深海みたいな長い黒髪。なにもかもが作り物じみていて、見るたび秋声は思うのだった。まるで生きていないみたいだ、と。
 その姿は名前の研究室にある人形たちを想起させた。機械仕掛けの人形たち。虚ろな目をした容れ物。眠っている名前はそれらと同一だ。だから生きていないみたいだと思わされる。死んでいるみたい、なのではなく。
 秋声がそんなことを考えているだなんて、きっと名前は知らない。昏々と眠る姿が恐ろしくて、その剥き出しの肩に手をかけているだなんて。
 休日。休館日。それでも秋声はいつも通り名前に朝を運びに行く。名前の目覚めは秋声の仕事だった。季節が一巡しても、変わらず。

「名前、」

 起きなよ、と軽く揺する。と、むずがるような声が歯列から漏れた。そのさまに秋声は安堵する。あぁ、今日も名前は生きている。
 けれどその目は未だ宵のなか。磨かれた宝石のような瞳は数度声をかけなければとろりとこぼれることはない。

「しゅうせいさん……?」

 緑がかった黒い瞳が秋声を見る。焦点を結ぶ。そして、……ほほえむ。

「おはようございます、秋声さん」

 無邪気な笑みに胸が高鳴るのはいつからだろう。髪をとく後ろ姿に目眩を覚えるようになったのは、いつからだろう。
 秋声がお茶を淹れている間に名前は身支度を整えていた。とはいえ今日は休みであるので身に纏う衣は司書の制服ではない。紫の袴と茶紫の着物。布地には矢絣と桜の文様が散っている。落ち着いた色合いのそれを着た名前は女学生然としている。
 そんな彼女は今鏡台の前で静かに髪をといていた。その後ろ姿にどきりとする。椿油の馴染んだつげ櫛。椿の彫られたそれは秋声が贈ったものだ。それが今名前の手にある。名前の手で、秋声の贈った櫛で、髪がとかされていく。長い長い黒髪が、

「……かみを」

 切ってあげようか。そう誘う声すらどこか遠い。名前の匂いたつ黒髪は目の前でたゆたっているようにすら感じるというのに。

「髪を、ですか」

 「そうですね……」鏡の中の名前は目を馳せた。「すこし、気になるかもしれません」額にかかる髪を一房持ち上げる。そんななんてことないしぐさにすら、唾を呑む。

「切った方がいいかしら」

 秋声の渇いた声を知ってか知らずか。いや、知っているのだろう。でなければ、こんな勿体ぶった所作で髪を掻き上げたりなどするものか。蠱惑的なまなざしを流すものか。

「ねぇ、秋声さん。切った方がいいかしら、ね」

「……そうだね」

 苛立ちを抑えた声は思ったよりもずっと低い。けれど名前は一瞬目を見張っただけで、あとはくすくすと女童のように笑った。
 ーー女童だって?
 自分の思考に自嘲する。そんな可愛らしいものか。清らかな奸婦。そう称した方がずっと彼女らしい。
 「ねぇ、秋声さん」その声は毒。その声は呪。わかっているのに、引き寄せられる。飲み込まれる。

「言ってください、あなたの言葉で。……求めてください」

 ーーわたくしを。
 唇だけで名前は言った。赤い赤い、血を刷いたみたいな、朱。
 「……言ってくださらないの?」拗ねたような口ぶり。悲しげに下唇をつき出す姿はいたいけで庇護欲を掻き立てられる。しかしそれすら仕組まれたものだ。計画犯罪。秋声にはわかる。彼女の考えていることがすべて。わかっている。わかっている、けれど。

「ーーいいよ、僕が切ってあげる」

 でも望み通りには言ってやらない。"切った方がいいよ"なんて。絶対に言ってやるものか。
 それでも名前は笑った。心底嬉しいといった風に。花が咲いたように、笑った。

「どのくらい切ろうか」

 名前の髪に櫛を通す。さらり、さらり。触れたとこから逃げていくようなそれは名前の腰まであった。

「そうね、思いきってみるのもいいけど……でも秋声さんは長い方がお好きでしょ」

 手が止まる。一瞬、ほんの一瞬だ。すぐに時間は動き出す。なのに名前は笑っていた。猫みたいな目で鏡越しに秋声を見る。「ふふっ、隠すのがお上手ですこと」……嫌味だ。秋声は口を開きかけて……やめた。彼女には敵わない。敵う気もさらさらない。
 結局名前は今のままを望んだ。長い長い黒髪。「出会った頃とおんなじままがいいの」瑞々しい瞳は歳を重ねることを想像させない。つややかな輪郭も、娘らしい肢体も。きっと生涯変わらないだろうという予感を秋声に与える。
 けれど彼女はそうではないらしい。伏せた目からは懊悩が伺えた。

「……そう、」

 それを否定するかのように鋏が音を立てる。パシンッ。鋭い爪痕、舞い散る黒髪は鮮血のようだ。切り刻むたびに名前から血が流れる。彼女の厭う時の流れが積み重なり、否応なしに彼女に突きつけられる。お前は生きているんだ、と。

「今度はわたくしが切って差し上げましょうか」

「遠慮しとく。不器用な君に任せるには僕の髪は短すぎるよ」

「まぁ、ひどいわ」

 鈴を鳴らしたような笑い声。慎ましやかに笑む姿も髪の色もめまいがしそうなほど清らかなのに。同時に泥濘に足をとられたような気にもなる。
 秋声は口端をあげた。

「そうだよ、僕はひどいんだ」

 本当に優しい男だったら今すぐこの手を離している。波立つ髪から手を離し、追いすがる彼女の手を離し、そうしてこの部屋を出ていくのが真実優しいということだ。いたずらに夢を見せ、しかし永遠を誓わない秋声は彼女の言葉を否定できない。ごめんと一言謝ることさえ。

「……ほんとうにひどい人」

 名前は諦めたように息をつく。「でもそんなあなたが好きよ」その朱に秋声が絡めとられているのと同じように。彼女もまた、秋声のなにがしかに縛られているのだろう。
 秋声は返事をしなかった。ただ黙って鋏を入れた。シャキン、シャキン。一呼吸ごとに永遠が散っていくのを名前がどんな目で見ているのか秋声にはわからない。ただそこに広がる静けさだけを感じ取っていた。

「もしも、」

 ぽつり、水が落ちる。波紋。もしも。その声は油のつきた灯火のように頼りなかった。

「わたくしが人でなしになったら、秋声さんは怒るかしら」

「そうだね、きっとひどく叱るだろうさ」

「わたくし、愛想をつかされるのは嫌よ」

 互いのことを話しているはずなのに響きは他人事のようだった。どこか遠くの噂話をするみたいに感情の籠らない声で名前は呟いた。でもその囁きが微かに揺れたのは確かだった。

「それはないんじゃない」

 感情は殺した。今日の天気とか気温とか世界の反対側のことを話すみたいな適当さで秋声は答えた。
 「"人でなし"の定義なんて曖昧だ」秋声は思う。人によったら、たとえば彼女の両親からしたら、秋声だって十分に"人でなし"だ。そしてきっととうの昔から名前だって。

「だから名前が"人でなし"だって僕は気にならないよ」

 叱るのはやめないけどね。秋声は言って、髪を切り落とした。名前の髪は蝋塗りのように黒かった。それがいずれ白くなり抜け落ちていくのが自然の摂理だ。でも秋声はちがう。秋声も他の文豪たちも。……名前とは違う。
 秋声の頭に浮かんだのは彼女の研究室にある人形たちだった。そのなかのひとつが彼女とそっくりであることと彼女の研究内容が魂の保存であることをぼんやりと思い出す。

「ねぇ、名前、」

 秋声は鋏を置いた。それから彼女の顔の横に自分のそれを並べた。そうして二人揃って鏡の向こうを見た。秋声は名前を。名前は秋声を。
 秋声にはこぼれそうに濡れた黒い目が見えた。戦慄く朱い唇も。豊満なみどりの黒髪も。今この瞬間にしかない名前を見ていた。
 名前は何を見ているのだろう。秋声のなかに永遠でも見ているのだろうか。
 きっとそうだと秋声は思った。でもどちらも間違いじゃない。刹那も、永遠も。

「"how nice it would be if we could only get through into Looking-glass House! "ーー」

 名前は囁いた。「鏡の中ならこんな苦しみはなかったのかしらね」その考えを笑うみたいに鏡の名前も顔を歪めた。
 秋声は静かに彼女の髪を手で梳いた。もう既に伸び始めている髪を。

「……決めるのは名前だよ」

 永遠の青年は優しく残酷に宣告した。 そうしながらも雲のように広がる豊かな髪からは手を離せないでいた。ーーあぁ、めまいがする。
 秋声は目を閉じた。頬に感じる熱がたまらなかった。たまらなく、いとおしかった。
 そしてそれこそが答えだった。倫理や道徳といったものはふたりの外にあった。






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how nice it would be if we could only get through into Looking-glass House!
鏡の国のアリスより。