司書と賢治と有機交流電燈


 人家の明かりが星の煌めきにとって代わって幾星霜。人工的な光に眉をひそめる者も世間にはいるなかで、宮沢賢治はのんびりと笑っていた。「きれいだねぇ」と言って。
 それが名前にはすこし意外だった。

「そのせいで星は遠退いてしまいましたのに?」

 今の世に星は必要とされていない。だって導は他にある。名前たちを追い抜いていった男もすれ違った子供たちも、みな迷うことなく進んでいく。多くの人にとって、星などもはやただの飾りに過ぎなかった。

「うーん、たしかにさびしいとは思うけど」

 賢治の手はちいさい。幼子のそれと同じく柔く、清い。なのに大人よりもずっと強い力で名前のそれを握る。握って、導いてくれる。大人びた微笑で。穏やかに。

「でも生きてるのはおんなじだから。人工的なものだって、そこに集う人のことを考えたら……うん、やっぱりきれいだよ」

 その眼差しは親が子を見るものに似ていた。

「……それでも名前ちゃんはさびしいって思う?」

「……だからこそ、かもしれません」

 この人に嘘はつけない。身なりは幼くとも魂は成熟した大人のそれなのだ。有機交流の電燈は光となって名前を見つめる。清らかな青。どこまでも透き通った、ひとつの光。
 名前は微かに頬を緩めた。

「でも、もう平気です」

 さびしいと思うのは満たされないから。自分が温もりを欲していたのに、ーー家族というものに焦がれていたのに気づかされたのは特務司書となってからだ。賢治も含め、文豪というのは往々にして容赦がない。だから名前の殻も容易く打ち砕く。砕いて破って、なおも手を伸ばしてくれる。有機交流電燈。そのひとつの光だと、彼らのお陰で自分を認めることができた。
 ーーだからもう平気だ。

「羨ましいって、今なら言葉にできますから」

「……そっか、」

 賢治は「よかった」と笑みを深めた。ぎゅっと、結ばれた手から温もりが伝わる。生きている。彼も、名前も。生きて、隣を歩いている。ひとりではなく、世界のひとつとして。

「ーー"それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで、ある程度まではみんなに共通いたします"」

「『春と修羅』ですね」

「正解。……ふふっ、嬉しいな」

 賢治の諳じたものに、名前は瞬時に答えた。そうすることができたのは単に名前がこの詩に感銘を受けたからにほかならない。それほどの力が彼にはある。というのに賢治はその才を滲ませることなく無邪気に繋いだ手を振る。抱えた荷物なんて気にならないみたいに。地を蹴る足は驚くほど軽やかで、名前は引っ張られるばかりだ。

「……っ、賢治さん、危ないわ」

「平気、平気」

 足が縺れそう、なんて不安は杞憂に終わるだろう。でも心配になるのが名前の性で、その手を引いてやるのが賢治の性であった。

「ねぇ、名前ちゃんもうたってよ」

「ええ、」

「ほら、ね、"すべてがわたくしの中のみんなであるやうに"」

「ーー"みんなのおのおののなかのすべてですから"」

「"けれどもこれら新生代沖積世の、巨大に明るい時間の集積のなかで"」

「"正しくうつされた筈のこれらのことばが、わづかその一点にも均しい明暗のうちに"ーー」

 名前が口ずさめば賢治が答える。明滅する光と光。名前は賢治を見た。賢治も名前を見た。二人の目は同時に世界を映していた。それでも二つの世界はけっして同じにはならない。それをさびしいとは思うけれど、でも。

「……もっと聞かせてください、賢治さん。あなたの言葉で、あなただけの言葉で」

「ボクも聞きたいな。キミの言葉、キミだけの言葉」

 重ならない目線も開いた背丈も、二人は気にしなかった。ただ二人して子供のように声を上げて笑った。青い光はすぐそばにあった。






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『春と修羅 序』より
そのうち加筆修正します。