少女と庭師


 名前は窓から見える景色が好きだった。どこまでも続く青い空も連なる山々も。その先にある世界に思いを馳せることも好きだった。それから、庭で花の世話をしている青年を眺めるのも。

「ーー、そんなに見られると、さすがに気恥ずかしいんだが」

「あら、ごめんなさい」

 だから青年ーー室生犀星に眉を下げられても頷くわけにはいかなかった。だって彼を見ているのは気持ちがいい。葉に触れる優しい指先も柔らかな眼差しも微笑みも。土にまみれながらも輝く目が名前にはひどく眩しくーー焦がれている、といってもよかった。

「ほら、わたしじゃお世話できないでしょう?だからね、犀星さんのお仕事を見てやった気になってるのよ」

「……そっか」

 名前は植物を育てるのが苦手だ。向いていないと自覚している。どうしてだかわからないがーー恐らくは世話を焼きすぎるのが原因だろうと以前誰かに指摘された記憶があるーー上手に育てられた試しがない。だからもう長いこと土に触れることがなかった。元よりそんな体ではないからこの広大な庭園の世話など一人じゃできっこないのだが。

「まぁ、名前が楽しいならいいや」

 犀星の笑顔は太陽すら霞ませる。
 名前も目を細め、微笑みを返した。ーーこの人がいてよかった。ダイナもなついているし、なにより庭園が生き生きとしている。もう彼のいなかった頃が思い出せないくらいだ。
 そんな彼の熱心な働きぶりを間近で見たくて、名前はわざわざ自室を出て一階の応接間まで降りてくる。もちろん自室からの慣れ親しんだ景色も好きだ。そこから庭園を見下ろすのも。背の高い植物に見え隠れする彼を見つけるのも。
 でも一番は彼と同じ目線で彼を見つめることだった。だからわざわざ談話室の窓際にソファをくっつけた。今もそこからバラの手入れをしている犀星を眺めている。

「……ありがとう、犀星さん」

「ん?」

「ありがとう、って言ったの!……お花、今朝も届けてくれたでしょう」

 窓辺に置かれた花束。犀星から名前への贈り物。この習慣はいつからだろう。いつから彼は名前に朝を迎える楽しみを与えてくれるようになったのだろう。
 名前に朝の喜びなんてなかった。あるのは安堵。それからすこしの落胆。また昨日を乗り越えてしまった。また今日を迎えてしまった。そんなことを思いながらベッドから起き上がる。彼が来るまではずっとそうだった。
 でも、今は違う。
 どんな花を贈られるのか。ドキドキしながら眠りに就くことも。眠りから覚めることも。ーー名前は、知ってしまった。

「な……っ」

 数メートル先の犀星の顔が朱に染まる。照れているんだ。それくらい名前にもわかったけれど、どうしてなのかは理解できない。
 ということに触れると、犀星は目を反らした。「いやまぁ、それはそうなんだが」もごもごもご。あからさまに怪しい挙動。作業していた手はすっかり止まっている。その様子は名前が差出人不明の花束の贈り主を突き止めたときと似ていた。

「……恥ずかしいだろう」

「善いことをしているのに?」

 端から見れば彼は善人だ。その行いは善行だ。かわいそうな病人に生きる喜びを与える。善いことに違いない。
 そう、名前は思うのだけど。

「けど男らしくないだろ。黙って花だけ置いてくなんて」

「奥ゆかしいって言うんだわ、そういうの」

「ものは言いようだな……」

 犀星は微妙な顔をした。この顔にも覚えがある。秋声がよくする顔だ。彼ならこのあと名前を可愛くないとかなんとか言うのだ。
 でも犀星はそうしなかった。

「……喜んでくれるなら、よかった」

 彼の周りだけ季節が巻き戻ったようだった。曇りない、抜けるような。晴れ晴れとした空を名前に思い起こさせた。

「……喜ぶなんて、そんな小さなものじゃないわ。わたしにとってあの花は最後の一葉みたいなものだもの」

 それは言いすぎだろうと犀星は頬を掻いた。最後の一葉。死の床にある女の子。あの蔦の葉の最後の一枚が散るときにわたしも死ぬのよーー。
 けれど葉は散らなかった。最後の一枚だけは雨のなかも落ちなかった。だから彼女は生きようと思った。
 名前も同じだ。毎朝花束を見るたびに思う。また明日、同じ喜びを感じたいと。そう、思ってしまった。

「でも、わたしはーー」

 言いかけて、慌てて名前は口をつぐんだ。これは言ってはならないことだ。誰にも、ーー秋声にも、先生にも。
 犀星は「え?」と首をかしげた。なんでもないの。言い繕えば彼は追及してこない。

「…………、」

 ただ彼もまた何かを言いかけて、やめた。代わりに鋏を動かした。チョキン、手折られた花は彼の手に収まる。そしてその花は、名前に差し出された。

「……これは、本物だろ」

 たった数メートル、なのに全力で走りきったみたいに肩で息をしていた。差し出された手が震えていた。

「本物……なんだから、効果はもっとあるんじゃないか……?」

 彼からは花の匂いがした。花と草と土の穏やかな香り。名前の焦がれてやまない世界の香り。
 名前は花に触れた。レディ・ヒリンドン。秋のバラのひとつ。杏に似た柔らかな色合いに高貴な香り。
 きれいだ、と思った。それはこの花だからというわけじゃない。彼の目が、指先が。名前のためを思っている。そこに思い当たった瞬間、胸を締め付けられた。

「……別に、偽物だってよかったのに」

「……?」

「最後の一葉ってそういうお話でしょう?最後まで落ちなかった葉が本当は絵だったからって、だからって誰も悪いと思わないわ。素敵なことだって、わたしは思ったもの」

「……そう、だった」

 犀星は今度は決まり悪げに視線を下げた。すっかり忘れていた、そんな顔だった。
 伸べられた手が、落ちる。

「でも、嬉しかった」

 名前はその手を掴んだ。トゲがあるから直接は触れられないけれど。軍手越しに彼を、花を、求めた。

「犀星さんはきっとみどりのゆびの持ち主なのね」

 広げたハンカチの上に一本のバラを横たえる。あとでピッチャーに移し変えよう。それからナイトテーブルに置くのだ。この匂いに包まれて眠れるように。

「それこそ言いすぎだ。俺には世界平和なんて無理だよ」

「やってみなくちゃわからないわ」

 名前の弁に犀星は笑った。「そうかな」なんて、満更でもない表情。
 と思ったら、目元を緩めて名前を見下ろした。

「今日は顔色いいな、安心した」

「大げさよ。わたし、そんなに病弱じゃないもの」

「……うん、」

 瞬きの間だった。でも名前は見てしまった。太陽が翳るのを。雲に覆われるのを。見てしまった。気づいてしまった。知らないままでいたかったのに。知らないままでいてほしかったのに。
 ーー名前の体がもう長くはないってことに。

「……、今度、海に行こうと思うの。ほら、最近は調子がいいでしょう?秋声さんにはまだなのだけど、でも先生は考えてみようって言ってくれてて」

 矢継ぎ早に話ながら、なんだか泣きたい気持ちになった。優しく相槌を打ってくれるから、なおさら。

「その時には、あなたも」

 広がる青空が美しいと思うのはどうしてだろう。聳え立つ山々が美しいと思うのはどうしてだろう。
 ーーそれはきっと、手の届かないほど遠くにあるからだ。
 そしてそのことに泣きたくなるのは、きっと。