少女と黒猫


 違和感から名前は目を覚ました。身を起こすと覚えのない花がピッチャーに活けてあるし、同じベッドには寝る前にはなかった温もりがあった。
 けれど別段驚きはしない。花についてはよくあることだし、ベッドで丸くなっているのは萩原朔太郎だからだ。
 まるで猫みたいね。思わずクスクス笑うと、安らかだった口元が歪んでむずがるような声が漏れた。ーー起こしちゃったかしら。そろりと覗き込めば、パチリ。寝ぼけ眼と視線が交わる。

「名前……?」

 半分夢心地の声は幼子のように甘ったるい。蜂蜜を連想させるくらい蕩けた瞳が青年のものだとは到底思えなかった。

「ごめんなさい、まだ眠っていていいのよ」

 だから答える名前の声も自然、母親がするみたいな砂糖たっぷりのものになる。それは彼のふわふわとした髪を撫で付ける手つきすらも同じだ。赤子を寝かしつける気分で名前は朔太郎の頭を頬を撫でた。
 けれど朔太郎はゆるゆる首を振る。

「うぅん……、名前が起きるなら起きる……」

 言ったそばからの呑気なあくび。大きく伸びをする背。その姿は寝起きのダイナそっくりで、やっぱり猫みたい、と名前は頬を緩めた。
 彼はといえば、目を擦りながらゆらゆらと辺りを見回したかと思うと、「これは?」とナイトテーブルの上に広げられた紙の束に興味を惹かれていた。
 ミミズののたくったような……もとい走り書きが不規則に散りばめられている紙面。文字を追う指先はしなやかな白さを持っていた。

「ダ、イナ……、ミミズク?の先生……、ネバァランド……」

 視力の悪い人がするように、朔太郎の目は細まっている。半ば眠りに落ちながら書かれた文字は拾い上げるのすら困難だろう。それを書いた張本人の名前ですら今となっては読み取るのに時間がかかるのだから。

「これはね、ダイナの物語なの」

 朔太郎の背中越しに昨日の自分が殴り書きしたものを見る。これは文章にするのも一苦労だ。考えるだけで頭が痛い。なのにきっと次も同じことをするだろうという予感があるからーーそしてその予感が的中するだろうから、名前は苦く笑うしかない。

「名前の新しいお話……、読んでもいい?」

 それでも朔太郎はパッと顔を輝かせた。読む、なんて。まだ骨子しかできていないというのに。

「まだダメ。完成するまでは誰にも見せないって決めてるの」

「誰にも?」

「そう、誰にも」

 珍しく朔太郎の目が名前のそれをじぃっと見つめる。いつも伏し目がちなのが嘘のよう。
 青みがかった灰色。冬の空のようだと名前が常々思う瞳が、しずかに視線を投げかける。と、いうよりーー
 ーーなにやら探られている気分だ。
 その目はあまりに丹念で、底が知れなくて、臓腑の色形まで見透かされている気分になる。
 かといって居心地の悪さや不快感を与えるものでもない。ただ、見ている。見られている。それだけだ。だからこそ不思議で、なんだか名前まで目を反らしたらいけないような気がした。
 数分か数秒か。針の音すら遠退いた世界で、二人は見つめ合った。鼻先が触れ合いそうなほどの距離で。なのに深海よりも深い瞳の奥。そこがふと、緩んだ。

「……ならいいよ、待ってる」

 瞬間、糸が切れた。止まった時間が動き出す。針は規則正しく時を刻む。
 知らず、名前は長い息を吐いた。そのすぐそばでさざめき笑う唇。

「楽しみだな」

 朔太郎の真っ白な指先が柔らかく紙面を、名前の綴った文字を追いかける。踊る仔猫。そんな指使いだ。名前まで楽しくなって転がるように笑いだした。

「じゃあ頑張って書かないと。あのね、これはダイナが冒険するお話なのだけど……」

 泣き虫ダイナにはたったひとりの友だちがいた。でも彼はある日突然姿を消してしまう。その友だちを探すためにダイナは勇気を出して飛び込むのだ。はじまりからふたつめの星に向かって。ネバァランドへと。賢いミミズクやお喋りなカササギと出会いながら、ダイナは長い長い旅をするのだ。

「名前は出てこないの?」

「わたしが?」

 それは思いつきもしなかった。
 けれど朔太郎の目は本当に心底不思議がっていて、まるで名前がダイナのそばにいるのを当たり前だと思っていて。
 それがたぶんーー嬉しかったのだと思う。

「そうね、それなら……ジェリクルキャッツがいいわ。天国を目指すの。素敵でしょう?」

 名前が首を傾けると、朔太郎も一緒になって微笑んだ。「うん」彼の手が名前のそれを包む。こつり、とぶつかる額。目の前で煌めく一等星。その先に、名前はネバァランドを見た。

「お揃い、ね。僕と名前は一緒、ずっとずっと一緒だよ」

 重なる心音が心地いい。そう、彼となら。朔太郎ならきっと、ずっと一緒に、

「名前にとっての天国ってどんなところ?」

「それはもちろんーー」

 名前は少し考えて、一等星に応えた。

「今、この瞬間だと思うわ」

 穏やかな日差し。鳥のさえずり。温かなベッドに大切なひと。緩やかに流れる時間。
 ーーここはゆりかごだ。
 名前は目を伏せる。そう、ここはゆりかご。名前の、名前のためだけの。誰かが作ったゆりかご。
 ーーそしてそれは、永遠とはほど遠い。

「でもまだ完全じゃない。わたしは切符を手にしただけ。だから、だからーー」

 声がする。過去から追いかけてくる声。さよなら、名前。そう言ったのは誰だろう。泣いたのは、どの名前だろう。

「ーーダメなのね、きっと」

 名前は肩を落とした。押さえた心臓が弱く胸を打つ。そうすると目を反らしていたものが眼前に突きつけられた。真っ白な体。不自由な体。そんなのは見たくないのに。

「名前……?どこか痛むの」

「いいえ、そうじゃなくて……」

 名前は力なく笑った。

「わたしじゃダイナの物語に着いていけないわ。だってダイナは猫で、わたしは人間だもの」

 不服そうな顔に、名前は眉を下げる。仕方ないのよ。諦めきった声で彼の頬を包む。仕方がないの。わたしは人間だから。あなたとは違うのだからーー。

「ウェンディだってアリスだってクリストファーだって、みんな自分の世界に帰ったのよ。わたしも同じ。ネバーランドにはいられないの」

「でもペペンシー兄妹は違うじゃないか」

「それは、だって……、」

 名前はまだ死んでない。
 珍しく食い下がる朔太郎に答えようとして、言葉に詰まった。いや、そうではない。そうではなくーー、

「ぁ……っ」

 ーー頭が、軋む。
 閃光/圧迫/苦悶/嘔吐
 白む視界。張りつく喉。脳に突き立てられたナイフがぐちゃぐちゃにかき回されてる感覚。

「名前、名前、」

 叫ぶ声すら遠い。
 名前はただシーツを掻きむしり、身をよじった。足をもがれた虫のように。痛い痛い痛いーーそれだけが頭を駆け巡る。それすらも責め苦となる。

「いや、いや、」

 そして世界は反転する。
 最後に残ったのは猫の鳴き声だった。