武官、楊ゼンに看破される

 太公望が西岐に帰還して二日目の朝。旦を訪った楊ゼンは仙人界へ戻る旨を伝えた。

「楊ゼンどのも、ですか」

 先刻目覚めたばかりのナタクもそうであった。意識が戻るや否や足の修理をすると言って旅立っていったのだ。一朝一夕で治るような怪我ではないはずなのだが……。
 しかし同じく重傷を負っていたはずの楊ゼンもそんな素振りはちらりとも見せず、「ええ」と柔らかく笑った。

「ことは急を要しますから」

 ナタクも楊ゼンも仙人界で修行を積むのだという。ただ西岐の警備が手薄になるのだけが気掛かりだ、と彼は顔を曇らせた。

「あの様子からして聞仲が西岐を直接攻撃することはないでしょう。それに天化くんと四不象もこちらに留まってくれますから、危険は少ないと思いますが……」

 楊ゼンは未だ目を覚まさない太公望を気にしているのだろう。
 名前は旦の様子を窺った。彼は名前と目が合うといつもと変わらぬ仏頂面で小さく顎を引いた。ーー考えていることは同じだ。
 それを見てから名前も口を開いた。

「こちらのことでしたらご案じなさらないでください。天化どのも武成王どのも頼りになるお方だと存じておりますわ。もちろんこの西岐の民も、殷に負けるつもりはございません」

「……そうですね」

 楊ゼンはほんの少し表情を緩めた。

「では、あとは頼みましたよ」

 本来なら西伯侯にも一言ご挨拶を、と思ったのですがーー。そう言った楊ゼンの目には労りの色が滲んでいた。
 それに名前は首を振って答える。

「姫昌さまにはこちらからお伝えいたします」

 西伯侯姫昌の容態は会ったばかりの道士にもわかるほど良くないらしい。それは、決断の時が迫っていることを示していた。

「わざわざすみません」

 外に出たところで楊ゼンに頭を下げられ、名前は慌てた。

「いいえ、そんな。これは周公旦さまからの命ですもの」

 「外までお見送りなさい」と旦は言った。けれどそう言われずとも名前は楊ゼンの後を追うつもりであった。
 だから若干の笑みを含ませながら「それに、」と続けた。

「お見送りもせず楊ゼンさまを帰したとあってはうちの者にこっぴどく叱られてしまいますわ」

「あぁ……なるほど」

 そう答えた楊ゼンに驚きはない。慣れているのだろう。かしましい女官たちに囲まれているときも同じ目をしていた。表面上の笑顔。その実何を考えているのか。
 ご迷惑になっていなければよいのだけれど……。色めきたつ女性陣を止められなかった身としては責任を感じる。

「大したお構いもできず申し訳ございません」

 客人の歓待は本来女主人の仕事だ。この城でいうなら姫昌の妻ということになる。
 が、楊ゼン含め今回の客人は普通とは違う。部屋の用意や世話にあたる女官の手配。ここまではいい。けれど料理の采配となると問題が生じた。
 なにしろ相手は仙道。いつもなら好みをそれとなく探っておくものだが……。肉も魚も食べないとなるとさしもの料理長も頭を悩ませていた。
 「次にお会いするまでに学ばなくてはと皆申しております」名前は真剣に言ったのに、楊ゼンは軽やかな笑いを立てた。

「そんなに固くならないでください。我々は道士、まだまだ修行中の身ですから」

 「それに西岐を守りきることもできなかった」と彼は言った。その声は暗く、初めて内心に触れた気がした。
 楊ゼンは悔やんでいるのだーーそのことに、今さらながら気づいた。そのことをおくびにも出さなかったのは名前たちに配慮していたからだろう。傷ついたのは西岐の民で、自分たちは敵の攻撃を許してしまった立場なのだからーーと。
 そういうところは太公望と似ているなと名前は思った。
 太公望も朝歌で多くの人を救えなかったと風の噂で聞いた。彼自身がその話をすることはなかったし、いつも飄々としていた。だが彼が人の死を厭うのは伝わってきた。
 楊ゼンも被害に遭った人々に心を痛めている。ーー容姿も性格も違うけれど、やはり彼もまた心優しい人なのだ。
 それに気づいて、名前は微笑んだ。

「仮定の話をしたらキリがありません。あなた方の力で西岐が守れたかもと言うのでしたら、あなた方がいらっしゃらなければ西岐は滅んでいたという可能性も考えなければなりませんもの」

 名前にわかるのは今だけーー楊ゼンらのおかげで西岐の被害が最小限に抑えられたという事実だけだ。
 第一、彼らを恨む者など西岐にはいない。被害に遭った地域で救助活動にあたった者から受けた報告にもそうした類いのものは見受けられなかった。これから名前も災害見舞いに向かうが結果は同じだろう。
 名前の言葉に、楊ゼンは目を細めた。

「……そうですね」

 彼はそれだけ言った。
 いつの間にか二人は中庭にまで出ていた。ここから仙人界へどうやって帰るのかしら。名前の疑問に、楊ゼンは己の宝貝でもって答えた。

「…………っ!」

 楊ゼンが袖を振ったーーと思った瞬間だった。目の前に、大きな犬が現れた。

「哮天犬、というのですよ」

 宝貝とはなんでもありなのか。どこからどう見ても大きな犬にしか見えないが。いやでも道士さまの宝貝なのだからとんでもない力をもっているのだろう、きっと。
 名前は膝をつき、まじまじと哮天犬を眺めた。そうしていると神々しさまで感じられる。
 黒々とした目と見つめ合っていると、楊ゼンがまた笑う声がした。見上げると、「撫でてもいいですよ」と微笑まれ、名前はまた哮天犬に目をやった。

「よいのですか」

 訊ねると、首筋に顔を埋められた。返事の代わりなのか。これは了承ととっていいのかしらと考えながら、名前は手を滑らせた。
 その毛並みは名前の想像以上だった。上等な毛織物なんて目じゃない。一本一本が輝いているようだった。

「あなた、ずいぶん大切にされているのね」

 よしよしと撫でると、哮天犬は元気よく吠えた。うん、と言っているみたいで、名前の頬も緩む。

「お気に召しましたか?」

「ええ、とても。よい子ですね、賢いし気性も穏やかで」

「はい、僕にとっても大切な宝貝です」

 楊ゼンが哮天犬を見る目は、子供が羊を見るのと似た色をしていた。
 この哮天犬に乗って仙人界へ帰るのだと彼は言う。

「飛ぶのですか?この子が?」

「もちろん、よくできた子ですからね」

 同意とばかりに哮天犬はまた吠えた。俄には信じがたいが、楊ゼンも哮天犬もこう言うのだから飛べるのだろう。彼に跨がる楊ゼンを想像して、それが驚くほど違和感がないので名前は納得した。風に髪を靡かせ優雅に飛ぶ楊ゼン。なるほど、これは絵になる。

「また構ってあげてください。哮天犬もあなたが気に入ったようですから」

「それは……嬉しいです」

 立ち上がった名前の足に、哮天犬は頭を擦り寄せた。マーキングかな、と楊ゼンは笑う。つられて、名前も破顔した。

「では、また」

「ええ、名前さんもどうかご無理はなさらぬように」

 少し隈ができていますよ。
 楊ゼンは自分の目の下を指した。その言葉と仕草に、名前はさっと表情を変える。
 確かにここのところ立て込んでいた。四聖のもたらした被害、その復興と慰労。それだけでなく、西岐をひとつとするために諸侯との集まりを開かなければならないし、領地の整備だっていつも通りこなさなければならない。
 だが忙しいのは皆同じだ。宰相である旦などはこの比ではない。だからこそ名前も寝る間を惜しんで働いたし、疲れなど見せないように振る舞っていたのにーー。
 不甲斐なさと羞恥から頬を染めながら、それでも名前は頷いた。なんとなく、楊ゼン相手には反論の言葉が浮かばなかったからだ。
 この人にも敵わないなーー風雅な背を見送りながら、名前は溜め息を吐いた。