回廊を曲がった時だった。
最初に目に留まったのは赤ーーそれから、流れる豊かな黒髪だった。
向こうも天化に気づいたようで、「あら」というように目を大きくさせた。
「お体はもう大丈夫なのですか?」
「見た通りすっかり元気さ。まぁ並みの人間とはちと違うからな」
赤い襦裙を着た女は「よかった」と微笑んだ。それから、「とはいえ暫くの間はご無理をなさいませんように」と続けた。その声は言い含めるような響きがあった。そしてその目はひどく近しい者を見るような色合いをしていた。
それに思いがけず動揺して、天化は目を反らした。「おう、」と答える声にもいつもの元気がない。いったいどうしたというのか。己のことなのに天化にはさっぱりわからなかった。
そんな天化を置き去りに、女は「あっ」と手を叩いた。その行動にさえ天化は肩を揺らしてしまうというのに、女は気づかない。穏やかな顔で少し首を傾げた。
「ご挨拶がまだでしたね、黄天化どの。この通りわたしはあなた様のことをすっかり存じておりましたゆえ、頭から抜け落ちていたようです。申し訳ございません」
女は名前と名乗った。西岐の将軍の娘で、父と同じく武官の職に就いているらしい。
……というのは既に天化も知っていた。何しろ太公望や四不象とここまで旅をしてきたのだ。彼らから西岐の話を聞き出しておくのは不思議なことではない。
それに、彼女を見るのは今日が初めてではないのだから。
「……あん時とはずいぶん格好が違うんだな」
「え?」
「俺っちたちを助けに来てくれた時は男みたいなカッコしてたろ?だからびっくりしたんさ」
今の名前は襦裙を身に纏い、髪は一部だけ緩く結われ花の飾りで止められている。どこからどう見てもいいところのお嬢さんといった風貌だ。
けれど天化が初めて彼女を見たときーー聞仲から手傷を負わされ霞む意識の中で見た彼女は武人然としていた。
周りの者たちに手早く指示を出しながらも、周囲への警戒は怠らない。鋭い視線は天化にとって馴染み深いもので、脅威が去ったと断定はできないにも関わらず大人しく目を閉じることができた。直感したのだ。彼女は頼りになると。
だからこうして改めて相対してーーその差異に戸惑った。彼女が年頃の娘なのだと目の当たりにして、どう接すればいいのかわからなくなった。
ーーらしくないな。
頭を掻く天化を笑い飛ばすように、名前は鈴を転がすような声を立てた。
「そりゃあそうでしょう、この格好では馬に乗るのも一苦労ですもの」
だから胡服の方が本当は好きなの、と秘密を打ち明けるささやかさで彼女は言った。その目は悪戯っぽく輝いていて、その顔を少年のように見せた。
それを見て、天化からも力が抜ける。ーーやはり、最初の印象通りだ。
「名前は馬が好きなのか?」
「ええ、駆けるのも世話をするのも。天化どのは?」
「俺っちはあんまし乗った記憶がねぇさ。子供んときから剣の修行ばっかしやってたかんな」
「まぁ!」
名前は目を輝かせた。
「そう仰るということは……天化どのは剣を得物とされているのですね」
「あれ、それは知らなかったさ?」
「ええ、武吉どのから聞いたのは大まかなことだけですから」
気絶していた者の中で一番回復が早かったのが武吉なのだという。さすが天然道士といったところか。
だから名前は武吉からこれまでの経緯を聞いたのだという。
それがなんとなく天化には面白くない。
「俺っちだってピンピンしてんだから遠慮せず聞きに来てよかったのに」
「まさか天化どのがこれほど早く回復なさるとは思いませんでしたもの。でもこれからはそうしますね」
「ついでに西岐のことも教えてくれると助かるさ。特に旨い飯屋なんか大歓迎。オヤジも兄弟もそういうのには目がねぇさ」
名前はもちろんと頷いた。けれどそれだけでは物足りなかった。
だから天化は明日の予定を訊ねた。急な話だというのは自覚している。しているのだけれど、気づいたら口にしていた。
果たして名前は考える仕草をした。そこで初めて天化は彼女の手に木簡があるのに気づいた。仕事中だったのだろう。遅まきながら察したが、もはやどうすることもできない。天化には彼女の内心がその態度と同じであることを祈るしかできなかった。
「昼過ぎならば時間がとれるかと思いますが……いかがでしょう?」
名前は天化を窺い見た。濡れたような輝きを放つ瞳は真っ直ぐで少しの陰りもない。
天化はそれを信じることにした。
「いや、大丈夫さ。ありがとな」
せめて、と天化は手伝いを申し出たがそれは叶わなかった。
木簡は地方の諸侯からのものだった。新しく拓いた土地の実りが悪いらしく人手を求める旨が記されていた。
「灌漑用の水路を整える必要がありそうで。それから揚水車の手配も……」と名前は言うが、天化にはさっぱりだった。わかるのは、手伝えることがないということだけ。
天化は肩を落とした。
しかしやることもないので、周公旦に報告しに行くという名前に着いていくことにする。太公望はまだ眠っているし修行相手になりそうな者は仙人界に帰ってしまっているしで本当に暇をもて余していたのだ。
「そうだわ、わたし、仙人界のことを聞こうと思っていましたの。太公望どのに聞いても修行の話などしたくないと申されるものですから……」
「修行の話ならいくらでもできるさ。なんせ俺っちの師匠はそういうの大好きだからなぁ」
だから名前がこう言ってくれたのは幸いだった。
歩きながら、この十年ほどの記憶を辿った。師匠との出会い、与えられた宝貝、過酷な修行。それらを名前は熱心な様子で聞いていた。
そういえば名前も天然道士だったな、と太公望から聞いた話を今更ながら思い出した。父である黄飛虎と同じ天然道士。つまり名前には仙人骨があるということでーー道士になる道も存在する。ということはいずれ仙人界に……
それは悪くない想像だった。
出会って間もないというのに、名前との会話は不思議と心地がよかった。嘘のない流れるような言葉は気持ちのよいものだ。おまけに趣味嗜好も合っている。よき友人になれるのではと考えると天化の顔には笑みが零れた。
その笑みは、別れ際に名前が放った言葉でより一層深まった。
「天化どのさえよければ……いえ、ほんの少しの打ち合いでもよいのですが、その……」
稽古をつけていただきたい、と緊張した面持ちで名前は言った。その表情から何を言われるかと身構えていた天化は、名前の発言に一瞬呆けてしまった。名前の様子は一斉一代の告白、とでもいいたげだったのだ。
今も彼女の唇は震え、頬は緊張から微かに紅潮していた。それがおかしくてーー彼女も天化と同じく探り探りなのだということがわかってーー天化は笑みを深めたのだ。
「ーーあぁ、もちろんさ」
握った手は天化よりもずっと小さかった。けれどその指は硬く、剣だこができていた。
天化と同じように。