姫昌の部屋から出てくる人影。懐かしさすら感じるその横顔に名前は声をかけようとした。
しかし太公望の顔は心ここにあらずといった風だった。どこか遠くを見る目。見慣れぬそれに、名前はたたらを踏んだ。
「どうなさったのですか」そう問うより早く、太公望の目が名前を捉えた。瞬間、張り詰めた空気が霧散する。
「おお、名前か」
久しいな、と笑う太公望に先程までの陰はない。
見間違いだったのかしら。思案しながら、名前は縫い止められていた足を動かした。
「目覚めたとは聞いておりましたが……、お元気そうで何よりです」
目前に立ち、先刻まで深い眠りに就いていた体をまじまじと眺め回した。発見した時に負っていた無数の傷。鞭で打たれたように赤く腫れ、血を流していた身体。けれど今はその名残すら見当たらない。袖から覗く腕も顔も、西岐を旅立つ前と同じ白さを持っていた。
傷が残ることはないと天化から既に聞き及んでいる。「そのくらいなら俺っちにも保証できるさ」と今日の昼食の席で彼は笑っていた。それを信じていなかったわけではない。けれど実際に目にするのとはまったく違った。
安心したのだーー思いのほか太公望を案じていたのだと悟り、名前は自身に驚いた。彼は自分よりよほど強い人であるのに。そう心から思っているし理解もしているというのにーーそれでも名前は太公望の身を案じていた。どうしてなのかは自分でもわからないのだけれど。
「御主人は決して強くはないっスけど名前ちゃんが心配するほどじゃあないっスよ〜」
太公望の肩越しにひょいと顔を覗かせた四不象は、ゆっくりとした調子で言った。
「強くないとはなんだ強くないとは」じろりと四不象を睨めつける目。しかし彼は主人相手にも怯まない。
「御主人の戦法が小賢しいことくらい周知の事実じゃないっスか」
「"小賢しい"のではない、"賢い"といえ」
打てば響くやり取りに、名前は思わず笑った。あれやこれやと言っているが、やはり二人は良い主従だ。太公望から四不象への、そして四不象から太公望への信頼。揺るぎのないそれは太公望が臥せている間、四不象も気を塞いでいたことからもわかる。
「おい、笑われてしまったではないか」
「名前ちゃんはいつも笑顔っスよ、ね?」
「ええ、スープーどのがあまりに愛らしいから」
名前が顎の下を撫でると、気持ち良さそうに四不象は目を細めた。
「極楽っスねぇ〜」四不象は名前から撫でられるのが好きだと言う。なんでも絶妙な指使いなのだとか。
普段から犬や馬と過ごしているからかな、とは思ったが口にはしなかった。四不象にだって自尊心というものがある。家畜と比べられるのは知性ある霊獣にとってみれば心外だろう。
「スープーよ、デレデレしおって……」
妲己の時といい、まさかこやつ女好きか……?太公望の疑念に、それこそ心外だと四不象は声を上げた。
「この反応が普通っスよ、御主人が枯れてるだけっス」
「太公望どのは枯れているのですか」
「そうっス、なんせ七十は過ぎたお爺さんっスからねぇ〜」
「余計なことを言うでないわ」
思いがけないことを聞いてしまった。
ーー太公望は、七十歳を過ぎている。
目を丸くした名前は、驚きを張りつけたまま太公望の顔をまじまじと見た。少年らしく整えられた黒髪。張りのある白い肌。すらりと伸びた手足。どこからどう見ても年頃の青年にしか見えないが……。
「名前よ、その目はやめてくれ」
言っておくがわしだって仙人界じゃ若い方なのだ、と太公望は言った。「天化やナタクは見た目通りだがのう」そちらの方が珍しいのが仙人界というものらしい。
通りで、と名前は内心頷いた。天化と話が合うのはそれが理由か。同じ道士でも太公望や楊ゼン相手よりも話しやすいのはどうしてだろうとは思っていたが、得心がいった。
「そういえばおぬしはこんなところで何をしておるのだ?」
太公望の言に、名前はあぁ、と声を上げた。
「ご夕食はどうなさるかお聞きしようと思っていたのです」話し込んでしまったせいで、すっかり忘れていた。
太公望は目覚めたばかりだ。胃に優しいものを用意した方がいいか訊ねなくてはと思い立ち、今なら西伯侯の元にいるかとここまでやって来たのだった。
「粥よりは甘いものが食べたい気分だのう……」
「では甘味を用意させましょう。ちょうど今朝届いたはちみつがありますの」
太公望が甘味を好むことは以前の滞在の折に知った。だから、と取り寄せておいたのだが……ちょうどよかった。
「わざわざ悪いのう」と言いながらも頬を緩ませる太公望を見ていると名前まで嬉しくなってくる。
「道士さまのくせに食い意地が張ってるんスから……」
呆れ顔の四不象は「武吉くんにも伝えてくるっス」と言って、ふわりと飛び立っていった。
あとに残されたのは太公望と名前の二人だけ。そうなると先程までの賑やかさが嘘みたいになる。
広がる静寂。それは決して嫌なものではないけれどーー伏せた目から憂いの色を感じ取って、名前は躊躇いがちに口を開いた。
「……姫昌さまとのお話に何か気がかりでもございましたか」
名前の問いに、太公望は瞠目した。それはいつかと同じような表情であった。
それから彼は長い息を吐いた。
「おぬしにはこんなとこばかり見られておるな……」
弱りきった顔で頬を掻く。
西岐の軍師となってくれーーそう、西伯侯姫昌は言ったのだ。
それ自体に驚きはない。当然だ。そうなるようにことを運んできたのだから。
それでも、と太公望は言う。
「あまり嬉しくないことだ」
彼の目は城下にーー市井の民に向けられていた。農具ではなく武器をとることになる無辜の人々へと。
太公望は戦を厭っているのだ。正確には、戦で生じる犠牲をできうる限り忌避したいのだということがその目から伝わってきた。
「太公望どの……」
気にするな、というのは容易い。あなたを信じると告げることも。だがそのどれもが太公望の負担になるだろう。
名前は迷った末に、目を上げた。自分より少しだけ高いところにある青年の顔を見つめた。
「我々が殷の兵相手に手を抜くことはないでしょう」
「あぁ……そうだな」
「ですから、太公望どの。あなたは殷の兵を守ることを考えてください」
は、と太公望は息を呑んだ。
しかしすぐに名前の意図を察して、呆れたという風に腕を組んだ。
「代わりに西岐の兵はおぬしが守る、と?」
「ええ、わたしや父やーー西岐の皆が」
そんなことができるわけない。戦になれば死者が出るのは必定。そこに殷も西岐も関係ない。太公望がいくら守ろうと、名前が命を懸けようと、救えない命などごまんとある。
だからこんなのは気休めだ。
それを名前も太公望もわかっていてーーだから彼は感心と呆れが入り交じった複雑な顔で名前を見下ろした。
「……おぬしが味方でよかったと思っておこう」
「わたしも太公望どのと戦えて光栄ですよ」
「わしが言ったのとは少々意味合いが異なるがのう……」
渋面を作った太公望は「天然とは恐ろしいな」とぼやいたのだった。