「料理対決、ですか」
目を丸くした名前に、太公望は重々しく頷いた。
「飛虎とおぬしの父が揉めておってのう……」
殷の国は広い。同じ主が治める土地とはいえ、朝歌と豊邑の文化には大きな隔たりがあった。
食が合わぬというのも道理。ゆえに彼らが城に滞在している間は料理長を筆頭に配慮したものを用意していたが……。
西伯侯姫昌から開国武成王の名を賜った黄飛虎はもはや客人ではない。だから今の黄家は姫昌から与えられた屋敷に居を移していた。新たに雇われた使用人たちは城仕えの者ほど気が回らなかったのだろう。
「それは使用人たちに伝え損なったわたしたちにも責任がありますね」
よいでしょう、と名前は太公望の申し出を受け入れた。
「必要なのは対決の場と調理設備、それから食材でしょうか」
「いや、食材は自分たちで用意させるつもりだ」
「なるほど、それはなかなかに本格的なご様子」
太公望は「世話をかけるな」と頭を下げようとした。それを慌てて押し止め、名前は笑った。「いいえ、」と。
「むしろ喜ばしく思います。軍師どの直々に頼まれごとをするのは名誉あることですから」
冗談っぽく言ってはみたが、内心に偽りはない。太公望の役に立てる。それは存外名前の足取りを軽くした。彼が西岐の民へ心を砕いてくれているのを知っているからだろう。
「だがおぬしもなかなかに忙しいのではないか?」
「わたしは指示を出すだけですから。長旅を強いられる使者たちにこそ苦労をかけます」
西岐が朝歌と戦争を起こすーーそれは名前が思った以上に民衆に受け入れられた。どころか、小さな邑からすら兵を出すと連絡が来るくらいだ。ひっきりなしにやってくる使者への対応。こちらから送る使者の選定。今後の段取りや太公望たち協力者の顔見せ。やるべきことは山積みだ。特に宰相である旦はいつ寝ているのかと疑問になるほど働きづめである。
「それに、太公望どのにも」
兵の訓練まで太公望から策を授けられた。太公望と話しているときは姫昌の目にも光が宿る。ーー本当に、彼には世話になっている。
「わしはなんもしとらんぞ」
太公望は飄々とした笑みで肩を竦めた。そういうところが姫昌の救いになっているのだろう。名前は笑って、「そうですか」と答えた。否定はするだけ無駄だった。どんな賛辞も太公望を喜ばせることはできないだろう。
代わりに名前も悪戯っぽく返した。
「父がご迷惑をおかけします」
「本当だぞ、まったくいい年だというのに」
「同感です。まったく、父ときたらうちの末弟よりも子供らしいときがあるのですよ」
年若い武官相手にも本気で張り合おうとする。それもくだらないことで。大食い対決などして翌朝床から起き上がれなくなったこともあった。食べ過ぎで腹痛を起こすなど、と母は馬鹿らしさに唖然としていたくらいだ。
……そういうところも、名前は好きなのだけれど。
「まぁ今回のことは起こるべくして起こったことだ。南宮括がいなくともな」
だから気にするな、と太公望は名前の頭をポンと叩いた。長じてからはまったくされたことのない行為。懐かしさと、それから……少しの喜び。
ーー子供なのは私も同じか。
内心で苦笑しながら、「ありがとうございます」とはにかんだ。
そして迎えた料理対決の日。
「では!!開始!!!」
太公望の号令に、黄飛虎と南宮括が走り出した。
「おーおー、燃えてんね、お二人さん」
「天化どの」
西岐の民はお祭り好きだ。おまけにこの料理対決、武に名高い黄飛虎と西岐の将軍の戦いである。注目度の高さも納得というもの。
そんな喧騒の間を縫って、いつの間にか天化が隣に立っていた。その隣には黄飛虎の末の息子、天祥の姿もある。
「よっ!」と気さくに片手を上げる天化の顔はこの数日ですっかり見慣れたものとなっていた。
「名前はどっちが勝つと思う?」
「どうでしょう……飛虎どのの料理の腕前は存じ上げませんが」
父もあれで手先が器用だ。いかに黄飛虎が料理上手でも善戦はするだろう。……などというのは身内の欲目か。
そう言うと、天祥の大きな目が名前を見上げた。
「勝つのはお父さんだよね?」
濁りのない目は一切の疑いを持っていなかった。それは天化にも飛虎にもそっくりで……名前は膝を折って目線を合わせた。
「天祥どのが飛虎どのを信じるのでしたら、わたしは父を応援しませんと。それでないと平等にならないでしょう?」
戦いは公平なものでなければ。
名前の言葉に、天祥は少し考えた。でもすぐに笑って、「そうだね」と頷いた。
「でも残念。名前お姉ちゃんがうちの子だったらよかったのに」
天祥は口を尖らせた。
うちの子?天祥らしくない言い回しに首を捻る。と、天化がひっそりと耳打ちした。
「こないだオヤジと手合わせしたろ?あれ以来オヤジは名前を気に入ってるんさ。うちの子っつーのはオヤジから移ったんさね」
「……それは、」
誉れ高いことだ。
名前は口許が緩むのを抑えられなかった。武成王黄飛虎。その名は朝歌から遠く離れたこの地にも轟いていた。憧れだった。目指すべき目標だった。
だから、嬉しい。とても、とても。言葉では言い尽くせないほど、嬉しかった。
「あ、じゃあこういうのはどう?」
両手を叩く天祥を、天化と名前は同時に見やった。二人からの注目を意に介さず、天祥はいいことを思いついたといった顔で提案する。
「お父さんが勝ったら名前お姉ちゃんはうちの子になればいいんだよ」
「それはいい考えさ」
天祥の言葉がどこまで本気かわからないけれど、天化は吹き出した。「名案だ」と笑う天化は、答えあぐねる名前に追い討ちをかける。
「うちの子になればいつでもオヤジとやり合えるさ。あと俺っちとも」
あまりに魅力的な誘いについ揺らいでしまった名前は、燃える南宮括の背に謝るしかなかった。