武官、新たな一面を知る


 西岐の城の一角、大きく開けた土地に周公旦の象は飼われていた。

「な、何だ……、このバカでかい生き物は……?」

 俺っちこんなの見たことねぇさ、とくわえた煙草を落としそうになりながら呟く天化。城内の者にとっては最早見慣れた生き物であるが、彼にとってはそうではないらしい。

「これは象というのですよ」

「正確にはアフリカ象とアジア象ですね」

 名前の言葉に、背後から現れた旦は付け足した。「私が世話をしています」そう言った旦の手には象のための果物が抱えられていた。
 おたべ、とバナナを差し出す旦の顔はいつも通りの無表情である。が、その目の奥が愛情に満ちているのを名前は知っている。象の世話は仕事に追われる旦にとって数少ない癒しなのだ。

「象ねぇ……」

 天化は物珍しいといった様子でその様子を眺めた。
 象自体は黄河流域でも生息している。戦にも駆り出されるこの獣は人にとって馴染み深いものだ。だが幼少期から仙人界で修行を積んできたという天化には縁がなかったらしい。

「名前はこれにも乗るんさ?」

「必要とあらばそうするでしょうが……」

 遥か西方の国、アンガとの交流から得られた象はもっぱら愛玩用だ。だから旦が生きている限りはないだろう。名前が象に乗るとすれば、それは戦場で敵を踏み潰す目的くらいしかないのだから。
 だから無邪気な問いに名前は緩く首を振った。

「周公旦さまは許してくださらないでしょう。何しろわたしのことを粗暴者だと常々顔をしかめていらっしゃるくらいですから」

 旦に聞こえぬようひそひそと囁く。旦と名前ではあまりに性質が違いすぎたのだ。
 そしてそれは名前と息の合う天化もまた同じだろう。

「じゃあ俺っちもこいつらとは仲良くさせてもらえないな」

 天化と名前は旦に見つからぬよう、くつくつと忍び笑った。
 そんな具合で城内を散策した数日後のことだ。
 名前の許に姫発がやって来たのは。

「頼む名前!象レースに出場してくれ!」

 修練場に現れた彼は、両手を合わせて頭を下げた。
 突然のことに、名前は構えていた木剣を下ろす。相対していた天化もまた、同じように。
 先刻までの張り詰めた空気はすっかり霧散していた。やる気が削がれた。そう、天化の目にはありありと書かれている。たぶん名前の表情も同じようなものだろう。

「ええっと……、」

 以前頼み込んだ通り、名前と天化は暇を見つけては剣の打ち合いをしていた。
 この日もそうだ。ふらりと現れた天化に木剣を投げられ、名前はそれを受け取った。いつもと同じようににぃっと笑った天化は、しかし剣を構えるとその顔から表情を消した。
 ーー隙がない。
 腰を落とした名前は毎度のことながら舌を巻いた。どこからも打ち込めるようでいて、どこからも返されてしまいそうな。
 ーーやはり、この人は強いな。
 そう実感しながらも名前の顔には笑みがあった。
 嬉しいのだ。この人と戦えることが。それがたとえ刃を潰した剣であったとしても。
 胸を弾ませながら、名前は地を蹴ろうとした。
 ーー姫発の気配を察したのはその瞬間だ。
 だから名前は思わず天化と目を見合わせた。

「象レースってあれか?こないだカバっちがビラ撒いてた……」

「そう、それ!」

 発の恐ろしいほどの食いつきように、発言した天化の方が勢いに呑まれている。なにがなんだかわからない。そんな顔で天化は名前を見た。そして「あとは頼んだ」と言いたげに一歩下がってしまった。
 カバっちーーつまり四不象が撒いていたビラなら名前も手にした。子供が描いたような象の絵とレース開催の報せ。そのビラが空から降り注いだあとでレース場建設の計画書が名前たち役人のところまで上がってきた。
 こんな遊びをしている場合ではないだろうーー生真面目な旦は頭を抱えたが、しかし開催の報は既に民へと行き渡ってしまっていた。あとは土地の使用を許可するだけだったのだ。

「旦に頼み込んで象は借りれたんだけどよ、騎手が足りねぇんだ」

 民衆の期待は裏切れない、と渋々承諾の印を押したのが昨日のこと。そして今日、発はさらに旦の頭を悩ませてきたらしい。
 旦は象の貸し出しを許可したのかーー。
 ああ見えて兄弟に甘いところのある彼だ。この結果は納得がいくが、今頃胃を痛めていないかと心配になる。可愛がっていた象をわけのわからないレースに出すなんて、怪我をしやしないか気が気じゃないだろう。

「頼む!!」

 今以上に過労を顔に刻みやしないか。旦の身を案じている間にも、発は名前に頭を下げていた。一介の武官でしかない、名前に向かって。
 ーーでも。

「……頭を上げてください、姫発さま」

「名前……?」

「あなた様に頼まれて断れるわけがないでしょう」

 微笑みに、発の目が輝く。
 その姿に胸が痛みつつも、素知らぬふりをして名前は続けた。

「それになにより姫発さまが応援してくださるのですし」

 この言葉に、一瞬で発の顔が固まった。「え……」と漏れた声はそのまま本人の戸惑いを如実に表している。
 ーー申し訳ございません、姫発さま。
 内心を圧し殺して、名前は小首を傾げた。

「応援してくださらないのですか?姫発さま直々にご指名くださいましたのに」

「いや、それは、えーっと、」

「まさか姫発さまはわたしが負けることをお望みなのかしら」

「……う、」

 追い討ち。
 口ごもった姫発は最早なんの抵抗もできない。さ迷う目。流れる冷や汗。
 結局彼は俯きがちに「悪い……」と呟いた。それは名前の言葉を肯定しているのと同じだった。

「……まったく」

 本当は最初から知っていた。姫発の抱えた借金の額も。その返済のための策を太公望から得たことも。ーー姫発が武吉に賭けていることも。
 姫発の友人たちは気さくな者ばかりだ。それは話好きということであり、名前が訊ねれば彼らは姫発のことをなんでも話してくれた。
 ーーすべては彼の身を案じるからこそである。
 なんてことは姫発には絶対に内緒だ。バレたらまた鬱陶しがられるだろうから、周りの者にもしっかり口止めしてある。
 という内情を毛ほども見せることなく、名前は口を開いた。

「わたしには負け戦をするつもりはございません。もちろん、姫発さまのご期待を裏切ることも」

 名前は根っからの武人だ。戦いは勝つもの。その考えは骨の髄まで染み付いている。かといって主が望んでもいない勝利をおさめることもできない。

「ですが主君を捨て置くこともできません」

 となれば道はひとつ。

「わたしは出場できませんが、代わりの者をご用意いたしましょう。どうかそれでご容赦ください」

 今度は名前が頭を下げる番だった。どんな理由があれ、主君の命に背いた。それは変えようのない事実だ。
 けれど姫発は静かにかぶりを振った。「いや、十分だ」そう言って。

「……悪かった、お前の性格は俺がよく知ってるってのに」

「わたしこそすみません、姫発さまの求めに応じられず」

 決まり悪そうに苦笑した発は、「この話はこれで終わりだ」と名前の肩を叩いた。
 では、と見上げてーーどきりとする。
 発は名前を見ていなかった。その先ーー名前からは見えない何かを見ていた。
 抜き身の刃。発の表情から名前が連想したのはそれだった。そしてそれは戦場に立つ伯邑考の鋭い眼差しに似ていた。

「姫発さま……?」

 掴まれた肩が痛い。その事実は思いの外名前を驚かせた。なんだか知らない人を見ているような気さえした。
 だから姫発から目線を向けられて、動揺した。「名前、」そう呼ぶ声が遠い。ーーいや、その逆だ。
 囁きは名前の耳朶を擽った。掠れた低い声。それすら耳慣れぬもののようで、名前の肩は知らず震えた。
 ーー緑の目が、名前を射抜く。

「……俺はこの象レースで一儲けする算段だ」

「はい」

「そんで借金が返し終わったら……」

 姫発はそこで言葉を止めた。また名前から顔を上げ、どこかに目をやってから、「やっぱいい」と肩を竦めた。その仕草は名前の知っている姫発のものであった。

「終わったらまた話す」

「……承知しました」

 納得したわけじゃない。気にならないといえば嘘になる。
 けれど発は「話す」と言ってくれた。ならば名前は待つだけだ。これまで通りの距離で。
 だからこの話は本当にこれでおしまい。……のはずなのだけれど、胸の奥がいまだに騒がしかった。驚きの波が去っていないのだろうか。
 そんな名前の様子をなぜか姫発は満足そうに見下ろした。

「ん。じゃーな」

 笑って、名前の頬に一瞬だけ指を滑らせた。
 ……何をしたかったのだろう。
 腑抜けた顔のまま姫発を見送る名前の背に、天化から声がかかる。

「……ずいぶん仲いいんさね」

「幼少の砌よりの付き合いですから」

「ふーん……」

 向き直った天化の表情は読めない。ただその声が圧し殺したようなものであるのだけが名前にはわかった。
 ーーそういえば、先ほどの姫発の視線の先には天化がいたのではなかったか。
 その意味を考えようとした名前であったが、すぐにその思考は断ち切られた。他でもない、天化の発言によって。

「つーか今の誰?」

「え、」

 ーーこれだけ城内に入り浸っているのに姫発のことを知らなかったのか。
 これはいけない、と名前は急いで彼が次の西岐の主であることを説明した。これからの戦いで天化が姫発と行動を共にすることがあるかもしれない。そうなったときにお互い腹の内を知らぬとあっては満足に戦えないだろう。
 しかし説明を終えても天化の顔は晴れなかった。聞いたのは彼からであるのに面白くなさそうな表情のままであった。
 それも翌日にはなくなっていたから、仕事に追われる中で名前の記憶からも薄れてしまった。ただ意識の片隅で何かが引っ掛かったままではあった。