武官、大会当日を迎える

 第一回象レース大会ーー当日は記念すべき日に相応しい好天に恵まれていた。
 乾いた風。照りつける日差し。しかしそれ以上に熱く燃えている男がいる。ーー南宮括だ。

「父上、どうかご無理はなさらぬよう……」

「何を言う。無理せずして勝利をあげることなどできるわけがなかろう」

 勝負事には全霊全力ーーその精神はこの象レースでももれなく発揮されている。このレース自体は姫発と太公望による金儲けの場でしかないのだが……。

「しかし父上は象に乗ったことなどないでしょう。無理をして怪我などなさったらどうするのです」

 そう、父南宮括は象に乗った経験などない。ではなぜそんな人がこのレースに参加したのか。
 それは至極簡単な動機であった。
 参戦者のなかに黄家の名があると耳にしたからだ。誰もそれが黄飛虎であるとは言っていないのにも関わらず。彼が出場するのだと信じこんだ彼は、名前の話など一言も聞かず参加を申し込んでいた。
 姫発に参加者を用意すると言った手前、名前からしてみればありがたい話ではある。が、しかし嫌な予感は拭えなかった。
 そんな娘の様子を父は意に介さない。「心配性だな」と言って、笑うばかりである。
 最早父を止めることはできない。名前に言えるのはひとつだけ。

「ーーご武運を」

 戦場に送り出すような心持ちで、父の大きな背中を見送るのだった。

「あ、名前ちゃん!」

 次に名前が出会ったのは四不象だ。
 彼は宙を漂いながら人混みの間をするりするりと器用に潜り抜けて名前の許までやって来た。

「名前ちゃんも見に来てくれたんスね」

「ええ」

 だがしかし、名前の一番の関心事はこの大会が無事に終わるかどうかだ。胸中に巣食う不安を一刻も早く取り除きたかった。
 自分でも何をそんなに気にかかっているのかわからない。けれど何か大切なことを忘れているーーそんな気がしてならなかった。

「名前ちゃんはやっぱりパパさんを応援するっスか?」

「そうですね……」

「それは残念っス……」

 「でも負けないっスよ〜」そう言ってふんと鼻を鳴らす四不象はやる気に満ち溢れている。
 ころころと変わる表情。素直な物言い。正直に言おう。このとき名前の胸は高鳴っていた。
 動物は好きだ。犬も馬も羊も、それぞれに良いところがあり、それぞれが名前の心を慰めてくれた。
 でもこんなときめきを感じたことはなかった。抱き締めたくてたまらない、なんて堪えることも。

「怪我だけはなさらないでくださいね」

 この玉のような肌に傷がついては世界の損失だ。
 真面目な顔でそんなことを考えながら、触れてもよいかお伺いをたてた。
 そのくせ四不象が「いいっスよ〜」と気軽に許可を出すものだから心配になる。こんなに無防備だなんて、この方はご自分の魅力をわかっているのかしら。こうなったら私が不埒な輩からこの身を守らなくては、と。
 自分が不埒なことを考えていたのは棚に上げて真剣に悩んだのだった。

 四不象と別れた名前が向かったのは楊ゼンのところだ。

「楊ゼンさんも呼んだんスよ」

 レースクイーンが必要だと姫発に頼まれたのだ、と四不象は語った。
 だが内心、名前は疑問を持っていた。
 ーー楊ゼンどのがレースクイーンですって?
 楊ゼンとレースクイーン。その二つが、名前の中でどうしても結びつかなかったのだ。
 確かに楊ゼンは綺麗だ。女官が騒ぐのも致し方ない、と名前が唸るほど整った顔立ちをしている。
 乙女の絹糸のような髪。均整のとれた体つき。一分の隙もなく輪郭の中に配置された目や鼻は、奇跡の存在を人に知らしめた。
 その神秘性は柔和な物腰ゆえでもあるだろう。そんな彼とレースクイーンなどというものがどうあっても一致しない。
 けれど四不象が嘘をつくこともあるまいーー
 悶々としていた名前はその実際を目の当たりにしてもまだ現実が受け止められなかった。

「あはん{emj_ip_0834}」

 「妲己よぉ〜ん{emj_ip_0834}」と腰をくねらす女性。この人がレースクイーンだというが……。名前の頭は彼女が楊ゼンであると飲み込めない。
 確かに楊ゼンに引けをとらない美しい容貌をしている。けれど彼女はどこからどう見ても女性で、楊ゼンは男性だったはず。それに楊ゼンがこんな蠱惑的な仕草をしているところなど見たことがない。性格、振る舞い。すべてが彼からかけ離れていた。

「お、おぬしはもしや楊……」

 しかし太公望もこう言いかけた。楊ゼン、と。だからつまり……そういうことなのだろう。

「楊ゼンどのはその……演技力も高かったのですね」

「ありがと{emj_ip_0834}」

 ぱちん、と片目を瞑る楊ゼン。そんな所作すら手慣れたもので。
 寒気がする、と震える太公望の隣で名前は微かに頬を染めた。同性から見ても惹かれずにはおれない、そういった不思議な力が彼女からは感じられた。絶世の美女だと姫発が騒ぐのも道理というもの。
 けれど太公望には通用しない。

「ニセモノだがのう……」

 そう呟いた彼の目には呆れの色があった。それが誰に向けたものであるのか。少なくとも一人が楊ゼンであることは疑いようもない。

「わざわざ楊ゼンが女装なんぞせずともよかろう。ここにはほれ、名前だっていることだし」

「やだわん、太公望ちゃんったら{emj_ip_0834}そういうのセクハラって言うのよん{emj_ip_0834}」

「おぬしは存在そのものがセクハラでは……うぐっ」

 楊ゼンに殴られてしまった太公望だが、彼の言うことは最もだ。わざわざ楊ゼンが女装などしなくとも……西岐にいる女性では駄目だったのか。
 ーー道士さまにこんな雑務までさせるなんて。
 頭が痛いやら胃が痛いやらで名前の顔色はすっかり悪くなっている。
 なのに楊ゼンはちっとも気にしない。
 姫発も姫発で、「名前にレースクイーンは務まらない」と言い出す始末。

「こんなじゃじゃ馬に任せたら寄ってきた男共が根こそぎ殲滅させられちまうって」

「姫発さま、わたしだって仕事でしたら静かにしていられます」

 その評価は心外だ。ただちに訂正してもらわねば、と名前は神妙な面持ちで姫発を見上げる。

「抗議するところはそこじゃないと思うわん{emj_ip_0834}」

 その後ろで楊ゼンらしい女性は愉快そうに笑っていた。彼女に叩かれた頭を押さえる太公望の存在はすっかり置き去りにして。