武官、北へと行軍する

 ーーそろそろ夜営を始める頃合いか。
 手綱を握りながら、名前は空を仰いだ。
 緑鮮やかな木々とその合間から差し込む光。それはまだ夜の装いをしてはいないが、天幕を張るにはこのあたりがちょうどいいだろう。
 山の中腹。どうせなら越えてしまいたいが、無理をしても日没には間に合いそうもなかった。ならば傾斜も緩やかなこの場所を夜営地にするのが一番だ。幸い近くに川も流れている。これなら皆にも不自由はなかろう。

「姫発さま、」

 主に提案しようと名前は馬を寄せた。
 けれど名前が言うより早く、姫発が口を開く。

「腹減ったなぁ、な、名前もそう思うだろ」

 メシにしようぜ。そう言った彼の顔は子供がものをねだるような色合いをしていた。
 連れ立った兵たちも同じ気持ちらしく、小さなざわめきが広がる。名前に集まる期待のこもった目。彼らは上司である名前の号令を待っていた。
 姫発の気取らない物言い。それは行軍を和やかなものに変えていた。そしてそれは今のわたしたちに必要なものだろうと名前は思った。
 ーー戦に行くわけではないのだ。気を張り詰めていては逆効果だろう。
 それにこれは兵たちに姫発という主君を認めさせるのにも役立つ。これから先、殷との戦において寄る辺となるもの。兵が姫発を信頼すればするほどいずれこの邑の力になるだろう。

「では本日の夜営地はこちらにいたしましょう」

 夜営といっても此度の行軍は規模が小さい。その上人足も女官もいないものだから用意する天幕も必要最低限のものであった。
 しかしそれは反対に気心知れた仲間しかいないということでもある。
 先の見えない北への行軍。にも関わらず、天幕を張り終えた兵たちは寛いだ様子で火を囲んでいた。
 豊邑から北東へ10日ほど歩いた先にある北の都、崇城。その地に進軍すると決めたのは太公望であった。
 西岐が殷を攻めたときに北から攻撃されたらひとたまりもないーーかといって兵を二分させるわけにもいかなかった。ただでさえ殷とは兵力差がある。ここで北伯候を味方につけておきたいと考えるのは当然のことだ。
 ーー太公望がすごいはここからだ。
 兵を引き連れているにも関わらず、崇城を攻めることはしない。そう、太公望は宣言した。
 太公望の策はひとつ。百の兵で北の物流を止め、北伯候を引きずり出すーー民を戦に巻き込まず北伯候を説得する算段だ。

「しかし太公望どのはどのようにして説き伏せるおつもりでしょう」

 鍋を火にかけながら名前は思案した。
 現在北伯は不在であるーー風の噂では弟の崇黒虎が代わりを務めているらしいが……崇黒虎は道士だという話も聞いたことがある。一筋縄ではいかないだろう。
 心配する名前を余所に、姫発は欠伸を漏らした。

「さあなぁ」

 関心のなさが伺える声音。まるで他人事のようだ。

「不安はないのですか」

 この一件とまったくの無関係であるならこの態度もわかる。でも今回姫発は当事者だ。百の兵を率いる長だ。もしも北伯と戦になったら……その可能性に不安はないのだろうか。
 そう訊ねると、「あるわけないだろ」と一蹴された。その言葉には微塵のためらいもなかった。
 どうしてだろう。
 その疑問を見透かした彼はどこかつまらなそうに答えてくれた。

「だって名前は太公望を信じてるんだろ」

 名前は目を見開いた。
 確かにそうだーーあれやこれやと気を揉んではいるが、それでも心には一切の揺らぎもなかった。それは太公望を信じているから。象レースでの騒動を経てもその信頼は変わらなかった。

「……そうですね」

 名前は微笑んだ。
 やはり姫発は名前のことをよく知っている。わかっている。
 二人の間を流れる静けさ。それが心地いいと名前は思う。願わくば、このままずっとーー変わらぬ忠誠を誓いたい。
 姫発に言うと顔を顰められるから口には出さないけれど。

「さぁ姫発さま、できましたよ」

 鍋の中身を椀に移し、姫発の手に渡した。並々と注がれた羹。細く立ち上る湯気に姫発の目が輝く。

「ありがとな、名前」

 一口。うまいと言ってから、姫発はひどく穏やかな顔で名前を見た。

「礼など不要です」

 慎ましい返事をしながらも、内心は喜びに満ちていた。
 嬉しかった。臣下に対して礼を尽くしてくれたことが。ーーなにより、自分を必要としてくれたことが。一等、嬉しかったのだ。
 「名前のメシが食べたい」そう言ってくれた姫発に、名前はなんの抵抗もなく承諾した。

「姫発さまは物好きです」

 普段食べているものの方がよほど美味しいだろうに。
 呆れた風に言う名前を、姫発はいやに柔らかな顔つきで見つめた。

「こういうときでないと食べられないだろ」

「だからそれが物好きだというのです」

「ーーそうでもないと思うけどな」

 姫発は口をつぐんだ。その目は煌々と照る焚火に向けられていた。ちらちらと揺れる炎は彼の瞳の奥で燃えているかのようだった。
 その目つきには覚えがあった。既視感。つい最近のことだーーあの時、象レースに出ないかと名前を誘いにきたあの時だ。名前ではない誰かを見ていたあの目。あれはいったいなんだったのだろう。
 それに、あの時は彼の様子もおかしかった。名前が理由を問い質すことはしなかったし、彼もまた気にした様子はなかったけれどーー今頃なにをしているだろうか。

「……今回はアイツを連れてこなかったんだな」

 ーー黄天化。
 今まさに思考を占拠していた者の名前。それが姫発の口から飛び出して、名前はびくりと肩を揺らした。
 姫発はもう炎を見ていなかった。彼は名前を見ていた。明々と燃える目で名前を見ていた。

「……天化どのには、西岐の守護をしていただきませんと」

 答えながら、名前は息苦しさを感じていた。
 なぜだろう。今考えるのは他にあるはずなのに、思い出すのは天化の顔だった。
 北への旅。見送りにきた天化はなんの曇りもない笑顔を名前に向けた。西岐は任せろ。そう言って、手を振った。
 彼の身を案じているわけじゃない。不安があるわけでも。けれどどうしてだか彼のことを思うとひどく心許ない気持ちにさせられた。丸腰で立っているような気にさせられた。愛剣は変わらず腰に下げられているというのにーー
 姫発は「ふぅん」と相槌だけ打った。でもその顔は何か言いたげだった。それが名前には少しだけ怖かった。彼が口にするもので名前の人生は定められてしまう。根拠はないのに予感だけがあった。

「ーーそういえば、姫発さまのお話は聞けずじまいとなってしまいましたね」

 だから、名前は自分から口火を切った。そうすることで足にまとわりつく気配を振り払おうとした。
 姫発も話を変えることはなかった。小さくなった炎を眺め、「そうだなぁ」と言った。

「借金減るどころか増えちまったからなぁ」

「ですが民は楽しめたようですよ」

「俺は全然楽しくねーけど」

 変わらぬやり取り。慣れた調子に、名前は内心安堵した。
 姫発は顔を顰めた。その表情はいたいけな子供のようだった。

「今も話してくださるつもりはないのですか」

「借金なくなったらって言ったろ」

 借金を返し終えたら。それだけ名前に言って、続きは象レースのあとで話すと以前の姫発は言った。けれど象レースで騒動が起こり、城の一部が破壊された。百億を超えた被害に太公望と姫発は夜逃げすることで答えた。このときの旦の怒りようといったら……。
 このときの被害は国庫で補ったが、姫発個人の借金は残ったままである。いつになったら払い終えられるのかわからない途方もない金額。

「それじゃいつまで経ってもお聞きできないような気がいたします」

 名前が食い下がっても、姫発は首を振るばかり。ダメだ、と。彼にしては珍しく頑なだ。

「借りも返してねーのに言えるわけないだろ」

「借り?」

「……象レース、お前も金出したんだろ」

「あれは、」

 象レースには父も関わっていたからだ。それに名前個人が払ったのは傷ついた象の治療費くらいで、南宮括が払った金額の方がよほど多い。どころか、自ら謹慎を申し出るほどであった。まぁ、それ自体は姫昌が退けたことでなくなったのだが。
 とにかく、名前に借りなどない。臣下として当然のことをしたまでだ。姫発が気にすることなどひとつもない。
 そう述べても彼の顔は晴れなかった。