武官、鳥に襲われる
西岐より乾いた空の下、名前たちは足を止めた。見上げる先、城壁の向こうには北の都、崇城がある。
「……、」
名前は生唾を飲み込んだ。
崇城までは無事に辿り着けた。けれど問題はここからなのだ。
体を固くする名前とは対照的に、姫発はいつも通りだった。もちろん、太公望も。
「我々の崇高なる目的はただひとつーー」
太公望はそこで兵たちを見渡した。そして真剣な顔と声で高らかに宣言する。
「ここでキャンプをするっ!!」
号令に、兵は残らず声を上げた。拳を天に突き出し、やる気満々といった顔つきで太公望の指示に従った。姫発もその一人である。
「なぜ?」と微妙な顔をしているのは黄飛虎と名前くらいなものだ。二人は顔を見合わせ、曖昧に笑んだ。
太公望に疑いの念はない。けれどわけがわからないのもまた事実で。
「……つっても、やるしかねーよな」
「そうですね……、ええ、頑張りましょう」
互いに激励をし、二人は別れた。黄飛虎は天幕の設営へ。名前は食事の準備へと。
「なんか臭わねぇか」
姫発が眉をひそめたのはそれから少ししてからだった。味見と称して大鍋からつまみ食いをしていた彼は、名前の隣に膝をついて顔を寄せてきた。
危ない、と名前はウサギを捌いていた小刀の手を止める。塩を振って焼く。それだけだが、まぁキャンプという格好さえできていればよいのだろうからこれで十分だろう。
なのに、「ウサギか、いいな」と姫発が言うものだからどうしようと迷ってしまう。
ーーそれは置いておいて。
「臭いの元ならば、ほら」
そこで名前は大鍋を一人で占拠している太公望を指し示した。
「軍師どのが何か作っているようですよ」
戦場で鼻が効かないのは困る。けれど軍師どのには策があるのだろう。だから名前は止めなかった。
が、しかしーー
「なんだアレ!?人死にが出る臭さだぞ!!」
好奇心から近づいた姫発が口許を押さえて駆け戻ってくる。
青ざめた顔。泣きそうな目。吐く、と頽れた彼の背を慌てて擦った。
「姫発さま、水を、」
「あ、あぁ……」
飲む余裕もないのではーーという懸念を裏切って、姫発は勢いよく名前の革袋から水をあおった。
「助かった……」
息をつく口許から水が伝い落ちる。それを手巾で拭ってやってから、彼の鼻から下を布で覆った。
「何もないよりはマシでしょう」
「あぁ……、お前は?」
布がないなら、と自分の外套を切る真似をする姫発に、今度は名前の方が青ざめた。
「いえ、大丈夫です。本当に、お気持ちだけで。いざという時邪魔になってはいけませんし」
少々息苦しいが、太公望の用が終わるまでは口呼吸だけで乗り切るしかない。
二人が話している間にも悪臭は広まっていく。四不象、黄飛虎、そして兵士たちへと。
皆からなんとかしろと訴えられ、太公望はようやくその怪しげな物体を隔離することにした。
ーーそんな時だった。
「空から気配を感じる……」
そう、黄飛虎が溢したのは。
彼の言葉に名前はハッと顔を上げた。耳を澄まし、意識を外へ追いやるーーと。
「空から何か音が聞こえますっ!!」
武吉が叫んだあと。少しの静寂を挟んで、それは現れた。
「と、鳥じゃーーっ!!」
太公望の叫びすら最早遠い。
鳥の羽ばたき、鳴き声。「ーーっ」名前は舌を打った。
油断していたーーしかし後悔している暇はない。名前は地を蹴り、手を伸ばした。
「姫発さまっ!!」
小刀で路を開き、気配を手繰りーー抱き締める。
腕の中から声が上がる。けれど名前は手を離さない。反対にきつく腕を回し、その身を守ることだけを考えた。
「……っ」
鋭い痛みが腕を走る。
爪で裂かれたかーー唇を噛んだ名前の肌を、爪が、あるいは嘴が休むことなく駆けていく。
押され、地を転がりながら、それでも名前は姫発を抱き締め続けた。
「やめろ名前!!」
そう、命じられても。
恐慌が収まるのにどれだけの時を要したのだろう。
「大丈夫ですかっ!?」
武吉に手をとられ、名前はよろよろと起き上がった。端が切れたのか、口内には血の味が広がっていた。
「助かりました、武吉どの」
喧騒の中でも武吉が鳥たちを説得する声は聞こえた。本当に、彼がいなければどうなっていたことか。
ほどけた髪を払って、名前は頭を下げた。そして姫発に目を移しーー動きを止めた。
「……なんでこんなことをしたんだ」
押し殺した声からはしかし怒りが滲んでいた。
こんなに怒っている姫発は見たことがないーーそれでも名前は引き下がれなかった。
「あなたさまを守ることがわたしの使命です」
「そんなことは頼んでいない!」
怒鳴ったのは姫発であるのに、彼の方が傷ついた目をしていた。
怒りと悲しみ。剥き出しのままぶつけられる感情に名前はたじろいだ。
ーーだとしても。
「なんと言われようとわたしに後悔はありません」
たとえこの命を捨てることになったとしても姫発を守り抜く。それが名前の望みだ。
姫発はなおも言い募ろうとして、やめた。
「……もう、いい」
言い捨てて背を向けた彼を追いかける術を名前は持たなかった。
痛む胸をなかったことにする方法も、また。