クリームダウン

 昼食の片付けをしていると、軽やかな音を立てて携帯が光った。食器を洗う手を止め、画面を覗き込む。メッセージの送り主は榎本梓だった。
 大尉ーー喫茶ポアロに居着いていた猫が飼い主の元に帰って数日。それまで大尉の世話をしていた梓は寂しさを感じていたらしい。
 名前としては大尉との別れに別段悲しみはない。ライバルが減るのは歓迎すべきことだ。これであの野生動物特有の臭いが透からすることもなくなる。万々歳だ。ただ戦いが決する前に去られたのだけは納得がいっていなかった。
 とにかく名前はせめてもの慰めにと猫カフェなるものに誘ってみたのだ。
 その返事が来たのだが……

「……よかった、」

 喜んでくれている。おまけに誘ったのは名前であるのに店まで調べてくれていた。
 無邪気な文言に頬が綻ぶ。梓の笑顔が名前は好きだった。癒される、ということなのだろう。

「名前、」

 了承の旨を返信していた名前の背に声がかかる。「どうしたの」顔を上げてーー驚いた。鳩が豆鉄砲を喰らったみたいに、目を丸くした。
 声をかけたのは唯一の同居人、安室透以外にいない。それに間違いはないのだけれど、でも。

「……何か、あった?」

 そろりと訊ねる。あるのは不安。
 彼の表情は一見いつも通りだった。声音にも揺らぎはない。でも纏う空気に違和感があるーー奥底が光る瞳は獲物を捉えた狩人のそれだった。

「よくわかったね」

 透の唇は笑みを描いた。
 その笑顔に確信する。ーー透は何かを掴んだのだ。
 何もない休日。朝から自室に籠っていたことからも察しがついた。赤井秀一の生死。その手がかりを掴んだに違いない。
 そう思っていたからこそ、透が次に口にしたその名に名前は首を傾げたのだ。

「ねぇ名前、楠田陸道って男知ってるかい」

「……ううん、その名前に覚えはない、けど」

 名前だけでは明確な答えは出せない。偽名の可能性もあるし、顔を見れば思い出せるかもしれない。そう考えていたから名前の返事は歯切れの悪いものとなった。
 それに別段気にした風もなく、透はその男の正体を明かした。

「組織の構成員の一人だ。まぁ下っ端も下っ端だから名前が知らないのもしょうがないんだけどね」

「……?そんな人がどうしたっていうの」

「鍵を握っているんだ……あの男の」

 まさか、と思った。
 組織の人間、そこまでならわかる。赤井秀一が死んだのは組織が原因なのだから。でも大した役割も与えられていない人間が赤井秀一の何を知っているというのだろう。
 一瞬はそう思った。でも名前はすぐに信じた。他でもない、透の言うことだ。それはどんな証拠よりも確かなものだった。

「今から彼が入院していたっていう病院に行こうと思うんだけど」

「ーー行く!」

 二つ返事。食いぎみに答えた名前を、透はおかしそうに笑った。そう答えると思ってた、そう言って。


「あれ?毛利先生じゃないですか!」

 杯戸中央病院。真っ白な廊下に響く爽やかな声。「何してるんです?」そう訊ねる声に不審なところはない。
 けれどこの遭遇が偶然のものだとは名前には到底思えなかった。毛利探偵と江戸川少年。そのどちらもが組織と縁があるのだから。

「どこか具合でも悪いんですか?」

「ちょっと女房がな……」

 透が毛利探偵と話している間、名前は江戸川少年をじぃっと見ていた。
 見開いた目。口。驚きを如実に表した顔。それは知人と偶然に会っただけが理由にしてはあまりに大仰すぎる気がした。
 やはり彼には何かあるのだ。ベルモットが気にかけるほどの何かが。
 透も同じことを考えていたらしい。彼は毛利探偵から視線を外すと、江戸川少年へと水を向けた。

「コナン君は前にもここに来た事があるって看護師さん達が言ってたけど……知ってるかな?」

 透の目が鋭く光る。

「楠田陸道って男……」

 楠田陸道。その名を聞いた瞬間、微かに江戸川少年の瞳が揺らいだーーような気がした。
 けれどすぐに子供らしいあどけない表情に戻る。

「誰?それ……知らないよ?」

 それが逆に名前の不信感を煽った。
 彼は何かを隠しているーー
 すっ、と透の目が走る。一瞬交わる視線。それだけで名前の疑念が正しいのだということがわかった。透も、彼を疑っているのだ。

「ホントに知らないかい?」

「うん!」

「すごいね君は……」

 透の声色が一段、低くなる。
 彼は後ろからやって来た見舞い客にも同じ質問をぶつけた。彼女らが「どんな方?年は?」「その人の写真とかあるかしら?」と聞き返してくるのを見て、さらに笑みを深める。

「そう、大抵の人は自分の記憶に絶対的な自信はないんです……」

 君はすごいよ、と呆気にとられる江戸川少年に笑いかけた。「名前だけで知らない人だと確信できるんだから……」その言葉に毛利探偵は「ガキの言うことを真に受けるなよ」と呆れるが、彼は普通の子供ではないのだ。
 透は鎌をかけた。それにあっさり引っ掛かってしまったのはこんなところで彼と遭遇してしまったという驚きや焦りが原因だろう。江戸川少年にとっては不運だが、それすらも透にとっては計算通り。
 かわいそうに。名前がほんの少し江戸川少年を哀れんだ時だった。

「ゼロー!!」

 声変わりする前の少年の声。病院には似つかわしくない元気なそれが廊下に響く。
 その瞬間だった。透の顔色が変わったのは。
 ばっと振り返る。その目が探したのはなんだったろう。

「お母さん、エレベーター来たよー!」

 少年の姿を認めて引いていく驚き。
 「どうしたの……?」そろりと裾を引くと、透の肩が震えた。「いや……、」なんでもない、と彼は言う。でもそんなのは嘘だ。だって、視線が揺れている。動揺。今だ落ち着かない心が名前には手に取るようにわかった。

「僕のアダ名も『ゼロ』だったから呼ばれたのかと……」

 けれど透がそう言うのなら今らそうしておこうと思った。名前が知るべきときになればきっと彼は話してくれる。頼ってくれる。そうなるために、名前が強くなればいい。
 だから名前は深く聞くことはしなかった。それよりも江戸川少年の反応に懸念を抱いた。
 彼はもう気持ちを切り替えていた。先程までの子供らしい態度はなりを潜め、冷静な目で透を観察していた。
 それがひどく名前の胸に引っ掛かった。