武官、天化に救われる


 崇黒虎との戦いは姫昌の言葉により幕を下ろした。
 だがその代償はあまりに大きかった。ーー姫昌が意識を失ってしまったのだ。
 慌てて輿に運び込み、西岐へ帰還したのが今朝のこと。
 名前はひとり、剣を振るっていた。
 朝靄に煙る修練場には剣が空気を裂く音と息遣いだけが響いていた。あとは無音ーー静けさだけが空間を満たしている。
 なのに名前の心は晴れなかった。どれだけ剣を振るっても、どれだけ汗を流しても。
 ーー姫発の怒りに満ちた目が脳裏から離れなかった。

「……っ、」

 音を立てて木剣が落ちる。汗で滑ったかーー拾おうとして、手が震えていることに気づいた。
 ーーこれでは剣を振るえるはずもないな。
 自嘲しても残るのは空しさだけ。溜め息を吐き、顔を覆った。

「……お疲れさん」

 そんな名前の頭にふわりと手拭いがかけられる。真新しい、柔らかな感触。

「天化どの」

 常のことだが気配を殺して近づいてくるのはやめてほしい。心臓が止まりそうになる。
 そう抗議する力も今はなかった。笑いかけた頬もひきつっている気がする。でも制御が効かない。今名前の体は意識とは離れたところにあった。
 天化は微かに眉をひそめた。ーーと思ったけれど、気のせいかもしれない。彼はすぐにいつもの気さくな笑みを浮かべたのだから。

「……剣を、」

 とれ、と天化は言った。その手には既に名前と同じ木剣が握られていた。
 名前は戸惑った。……こんな状態で?今の名前が天化と剣を交えても歯牙にもかけられないだろう。そんなことは天化だって察しがついているはずだ。
 なのに天化は剣を向けた。丸腰の名前に。酷い顔をしているだろう名前に。
 名前は天化を見つめた。真意を探ろうとした。しかし天化の深い色の瞳は何も語ろうとはしてくれなかった。ただ黙して名前を見つめた。

「……わかりました」

 名前も剣をとった。震えは唇を噛むことで隠し、纏まらない思考からは天化を見据えることで目を反らした。
 剣は人の心を映す。常ならば隙を窺うであろうに、名前はすぐさま攻め込んだ。
 一合、二合。しかしそのいずれもが天化に軽くあしらわれてしまう。それも当然だ。逃げに転じた名前の剣は鈍く、普段の軽やかさを失っていた。
 それでも天化はやめなかった。
 打ち込んでくる名前と切り結びながら、その目の奥を覗き込んできた。
 そうしていると世界から切り離されたような心地になる。木剣のぶつかり合う重たい音すらどこか遠く、名前は翠の海に沈んでいくような気さえした。
 それは演舞にも似ていた。決められた音に合わせ、刃を交わす。呼吸は定まり、思考は冴え渡っていく。
 もはや名前が見ているのは天化ではなかった。彼を通して己を見つめ直していた。

「……はぁっ、」

 気づけば名前の剣は撥ね飛ばされ、喉元には切っ先が向けられていた。

「……ありがとうございます、天化どの」

 完敗だった。反対に、名前の顔は晴れ渡っていた。
 礼を言うと、天化は眉尻を下げた。

「俺っちはなんもしてねーさ」

 ただこうした方が名前には向いてると思っただけだ、と天化は言った。
 けれど彼の想像は正しかった。自分でも驚くほどに。名前すら知らない自分自身のことを天化に悟られていたのだーーそれは気恥ずかしくもあったし、喜ばしくもあった。
 得難い存在だ。天化と知り合えたことを感謝しながら、けれど悩みは解決していないことに気づいて顔を曇らせた。
 名前自身の答えは出た。でもーー

「……何があったか聞いてもいいさ?」

 天化はそろりと訊ねた。遠慮がちな物言いは彼らしくもない。それほどに案じてくれているのだとさしもの名前にだってわかる。

「ーー姫発さまに不快な思いをさせてしまったのです」

 だから名前も答えた。それでも口にするには痛みがあって、思わず目を伏せてしまったが。
 名前は一切の偽りなく事の次第を述べた。北伯の元で鳥に襲われたこと。襲撃から姫発を庇ったこと。ーー姫発を、怒らせてしまったこと。

「姫発さまが喜ばないことはわかっていました。それでもわたしには止められなかった」

 姫発が主だからーーではない。ただ彼だから守りたいと思った。身を捧げたいと。
 ーーその考えこそが不興を買う原因なのだろうが。
 そこまで考えて、名前はまた落ち込んだ。これではどうあがいても彼の怒りは溶けない。
 もう二度とあんなことはしない。そう誓うことが名前にはできなかった。もしもまたあのような目に遭ったとしてもーーきっと同じことをするだろう。
 口約束だけはしたくなかった。けれど己の信条を曲げることもできなかった。
 八方塞がりだーー頭を抱える名前を天化は見下ろした。その目が逡巡に揺れたことを名前は知らない。

「……それを伝えた方がいいと思うさ」

 名前が顔を上げたときには、彼の迷いは振り切られてしまっていたから。
 名前を見る目は常にないほど温かだった。親が子を見るような、無条件で安心できる温もりだった。

「……でも、今度こそ放逐されてしまうかも」

「そうなったらそうなったでまた考えればいい」

 天化は名前の目許を拭った。涙。滲んでいたそれは天化の体温に溶けていった。
 ーーいつぶりだろう、人前で泣いたのは。
 不安に組んだ両の手を、上から天化が包んだ。大きな手だ。名前よりもよほど大きく、力強い手。

「名前がここを辞めるってんなら俺っちの師匠のとこに行けばいいさ」

 そこで共に仙人を目指そう。
 天化の言葉から嘘は感じ取れなかった。本気なのだーー本気で名前を仙道へ誘っているのだ。
 それがわかったからこそ、名前は首を振った。天化の誘い。それを経たからこそわかった。姫発に見捨てられるかもしれない。その不安はいまだ変わらず胸を苛む。
 けれど。

「……それでもわたし、まだここで働きたい」

 いつかは天化のいう未来が真になるかもしれない。でもそれは今じゃない。今はまだ、名前は西岐から離れられない。
 この邑の行く末をーー姫発が王となるのを見届けるまでは。名前が自身を不要と思えるときまでは、彼の選択を支えていきたいと思う。
 天化はニッと笑った。「そう言うと思ったさ」その顔は朝焼けの目映さを持っていた。
 名前は目を細めた。

「……感謝します、天化どの。おかげで、覚悟が決まりました」

 心にはいまだ痼がある。思うだけで胸が焼かれるような気にさせられる。
 それでも。

「いってきます、わたし、」

 進まなければ、と思った。思わされた。天化がいたから、前を向けた。

「いってらっしゃい」

 天化は手を振った。「また泣かされても慰めてやるから安心するさ」と背中を押してくれた。
 それが今の名前には何よりもありがたかった。この時確かに名前は天化に救われていたのだ。