武官、姫発に打ち明ける


 修練場を飛び出したところで名前ははた、と気づいた。
 名前は今すぐ姫発に会いに行くつもりでいた。けれど北から帰ったのはつい先程ーー普通なら久方ぶりの寝台を満喫している頃だろう。それは姫発だって例外ではない。そして自室にまで押し掛けることも名前にはできなかった。
 出鼻を挫かれた。勇んだ足は緩み、とぼとぼと回廊を歩く。行く宛はない。が、家に帰る気にもなれない。完全に迷子だった。
 どうしたものかーー
 溜め息を吐き、角を曲がった時だった。

「ーー姫発さま、」

 懐かしさすら感じる横顔が、空を見上げていた。
 風に靡く黒髪、深紅の旗袍。外套がはためき、視線が流れる。
 ーー透き通る翠の目が、名前を映す。

「……っ、」

 その瞬間、時が止まった。
 風も木々も絶え、意識が吸い込まれる。
 視線は交わった。はずなのだけれど、名前も姫発も口を開けなかった。近づくことすら、躊躇われた。
 ーーでも、それじゃダメだ。
 名前はぐっと奥歯を噛んだ。思い出す。天化の声、言葉。背中を押された瞬間のどこまでも駆けていけそうな感覚を。思い出し、一歩、踏み出した。

「……眠れないのですか」

 姫発の顔には疲労の色が残っていた。そんなことにも気が回らないほど、帰路は自失していたのだ。
 歩み寄る名前を姫発は拒まなかった。けれどふい、と目だけは反らされた。それにいたく胸が痛む。裂傷を負った腕よりも、よほど。

「ーーお前こそ」

「わたしは、別に」

 言いかけて、これではいけないと頭を振った。そうじゃない、名前が言いたいのは、言うべきことは、本当は、

「ーーひどく、悲しいと思いました」

 名前は見上げた。姫発の顔は名前よりもずっと高いところにあった。意識したことはなかったけれど、彼は立派な大人なのだ。名前の力なんて、もう彼には必要ないのかもしれない。
 それもまた悲しい、と名前は思った。

「こんな時に言うべきことではないとは理解しています。でもこんな時だからこそ禍根は取り除くべきだとも」

 きっと今の姫発の胸中を占めているのは姫昌のことだろう。むしろそうであるべきで、名前との諍いなんて忘れてしまった方がいい。
 けれど姫発はそうしないだろう。だから名前は今すぐ明らかにしておくべきだと考えた。何に邪魔立てされることなく、ただ父のことだけを思ってほしい、と。

「名前、お前……」

「姫発さま、」

 名前は姫発を制した。その声は意外なほど落ち着いていた。
 それもこれも天化どののお力添えあってのことだーー胸に残った笑みにつられ、名前の口許も微笑を描いた。

「わたしの気持ちに変わりはありません。あなたを守りたい、それは偽りないわたしの願いです」

 でも、と言葉を切る。
 思い出すのは数日前のこと。名前たちを襲った鳥の群れ。見えなくなる姫発の姿。迷わず伸ばした指先。ーーそれに後悔はない。ない、けれどーー

「わたしのしたことがあなたの心を傷つけるのならーー守ることができないのならば、」

「……出ていくのか、ここから」

 今度は姫発が名前の言葉を遮った。出ていくのか。そう問う声は低く抑えられている。絞り出すような音は血を吐いているようだった。
 そしてそれは名前にとって後悔のなかった選択が姫発に対しては正しくもなかったのだという何よりの証明だった。

「いいえ、いいえ」

 名前は手をとった。姫発の手を。ひどく冷えた指先を。自分もまた震えた手で、包み込んだ。

「一度は、考えました。でもそれはわたしの我儘です。姫発さまのことなんて考えていない、自分が傷つくのを厭っただけの」

 姫発を守ることと姫発の命に従うことが両立できないのならば西岐を離れることも考えた。それこそ、仙人界へ進むことも。
 だがその選択を姫発が求めていないのは今の彼を見れば容易にわかる。
 ならば、あの時の名前の行動はどれだけ姫発を傷つけたろうーー

「ーーわたしは、あなたを守りたい。その御身も、御心も」

 これは名前の自惚れかもしれない。思い違いも甚だしいのかもしれない。だとしたら笑い飛ばしてくれればいいーーそんなことを頭の片隅で考えながら、名前は姫発を見つめた。

「だから、わたしも改めます。すぐにというのは難しいですが……それでも」

「……もういい」

 なおも言い募ろうとした名前を、いつかと同じ言葉で姫発は止めた。いつかとは違う、力のない声で。

「俺も悪かった」

 ぼそりと溢れた言葉に、名前はまじろいだ。飲み込めなかったのだ、姫発の言ったことが。
 名前は姫発を凝視した。彼はまた名前から顔を背けていたが、覗く耳の先が赤いことに気づいてしまった。
 理解したあと、名前は狼狽えた。

「いえわたしの方こそ出過ぎた真似を」

「いや、違う。そうじゃない、そうじゃないんだ」

 即座に返された否定の語。
 言ってから、姫発は二の足を踏んだ。言い渋る唇。眉間によった皺。ごくりと鳴る喉。

「……これ以上、お前に借りを作りたくなかったんだ」

 囁きは、二人の間に広がった。

「カッコ悪いだろ、男なのに守られてばっかりで」

「姫発さま……」

 口早に言葉を重ねる姫発。その顔が、態度が、真実であることをなにより物語っていた。
 そんなことを考えているなんて名前は知らなかった。考えようともしなかった。だって名前は臣下だ。男とか女とか、そんなものは意識の外にあった。そうでありたいと望んでいた。だから姫発の言葉は名前に驚きをもたらした。

「姫発さまは格好悪くなんかありません。一度だって」

 それこそ、初めて会った時から。
 そう言えば、姫発は途端に顔を顰めた。

「……覚えてたのか」

「忘れるはずもありません。あの時わたしは仕えるべき主があなたでよかったと心底思ったのですから」

 あれはまだ名前が六歳くらいの時だ。西岐の城で子供たちの剣術大会が開かれた。なぜだったかは記憶にない。恐らくは祝いの席であったろうことだけはぼんやりと覚えている。
 その大会の直前、姫発と知り合った。
 姫発は大会には及び腰だった。優秀な兄、伯邑考と比べられる。それだけならまだしも、大好きな父まで哀れまれるのが一番息苦しい。そう打ち明けてくれた時の彼はまだ名前を男と思っていた。
 伯邑考に勝てる人などいるはずもないーーだから気にする必要などない。もしも心ないことを言う者がいたとしたらわたしが敵をとってやる。
 名前は生意気にもそんなことを言ったのだ。
 だがその時だって姫発を格好悪いなどとは思わなかった。
 逆に尊敬したものだ。名前よりずっと責任ある地位にいる彼を。泣きそうになりながらも決して逃げ出すことはしない彼を。
 この人が未来の主なのだーーと胸を弾ませたものだ。

「やめろ、恥ずかしい。今すぐ忘れろ」

「嫌です」

 だから頬を染めた姫発に抗議されても頷けない。これは名前の大事な思い出だ。そのあと伯邑考に完膚なきまでに叩きのめされたことすら。
 名前の拒絶に、姫発は何事か言い返そうとした。

「……カッコ悪くないってんなら、もう少し俺のことも信じろよ」

 けれど唇は開いたときとは違う形を描き、音は拗ねたような響きを持っていた。

「ーーはい」

 名前は静かに頷いた。
 穏やかな風が二人の間を吹き抜けていった。空に雲はなく、遠くで鳥の囀りが聞こえるほどに長閑だった。
 そのすべてを覚えておきたいと名前は思った。風も空も音もーー口許を綻ばせた姫発の顔も。