武官、太公望と語らう


 穏やかな昼下がり。風も雲もない豊邑城は静まり返っていた。
 名前は城内の広場にいた。名前以外に人影はなく、息遣いさえ聞こえなかった。あらゆるものが死に絶えている。そう思えるほどの静寂の中。
 名前はひとり、石段に座り込み、目を閉じていた。

「……何か、御用ですか」

「なんだ、気づいておったか」

 目前に降り立つ影。名前は目を上げた。
 流れるような佇まい。透明な瞳。ーー太公望だ。彼は軽やかな身のこなしで空から降り立つと、名前の隣に腰を下ろした。

「こんなところで何をしておるのだ?」

「太公望どのこそ」

 姫発さまに着いていなくていいのかーー目で問うと、「あやつなら立ち直ったぞ」そう事も無げに言い放った。

「第一姫発とて子供ではない。名前は心配しすぎだ」

「それは耳の痛い話です」

 身に覚えがある。ありすぎる、といってもいい。先日姫発を怒らせたのもそれが原因なのだから。
 名前は苦笑した。

「…………、」

 そこでぷつんと糸が切れたように二人は黙り込んだ。
 風もなく雲もない。颱風の過ぎ去ったあとのような凪ぎ。蒼穹は遠く、どこまでも広がっている。
 穏やかな昼下がりだった。けれど同時にどこか悲しくなるほどの静けさを持っていた。
 そう思ってしまうのは、名前の心のせいだろうか。

「……泣いてもよいのだぞ」

 ここならば誰も見ておらん。
 その呟きは独り言のような響きをしていた。しかし言葉は名前への労りに満ちていた。
 「ありがとうございます」でも大丈夫だ、と名前は緩やかに首を振った。
 姫昌を喪ったことは悲しい。悲しいけれど、でも。

「……あのお顔を見ては、涙も消え失せましょう」

 西伯侯姫昌。その死に顔は化粧を施す必要もないほど綺麗なものだった。弧を描く唇。柔らかに閉じた瞳。それは生を全うした者の顔つきだった。
 その姿を見て泣くことなど名前にはできなかった。その顔を悲しみに歪めさせることがないように、と身を引き締めるばかりだった。
 それでも、心に風は吹く。空虚感。あてどなく揺らぐ足許。名前は抱いていた愛剣に身を寄せた。
 涙はない。けれどーー寂しさを感じないわけではない。

「そうか、」

 太公望は頷き、名前の頭に手を置いた。いつかのように。その手は名前に安心感を与えた。ほっ、と心が緩む。

「なんだか兄のようですね、太公望どのは」

「なんだそれは。わしが頼りになるというのはそれこそ今さらの話だろう」

「……そうですね」

 実兄よりもよほど名前の兄らしい。父ですら自身の悲しみと向き合うのでいっぱいだというのに。
 太公望とて悲しみを覚えないわけではないだろう。姫昌が窶れていったのは妲己の策によるものだ。そしてその妲己は仙女で、太公望は道士で。仙道が人に干渉することをよく思わない太公望からすれば複雑な心境だろう。
 なのに彼は人を慰撫することを優先する。姫発しかり、名前しかり。
 ーーでは、彼の悲しみはどこに向かうのだろう。
 そう考えたとき、名前の体は勝手に動いていた。

「太公望どののお心遣いは忘れません。いつの日かお返しします、必ず」

 太公望が心のうちを話せる人。そんな存在になれると考えるほど名前は思い上がっていない。だけど彼の身に大事が降りかかったその日にはーー必ず助けとなろう。
 頭の上にやっていたはずの手を名前に握られて、太公望は呆気にとられた顔をした。

「そうか、」

 刹那、太公望の目が揺れた。
 でもそれは瞬きのうちに消え、すぐにいつもの浅薄な皮を被ってしまう。

「おぬしが泣いているなら主人公らしく慰めてやろうと思っておったのにのう……」

「主人公って、」

 名前は思わず笑ってしまった。主人公がなんのことかは知らないが、太公望はやたらとそれを気にする。気にせずとも彼には人を惹き付けるものがあるというのに。

「ではその時には太公望どのを頼りましょう、約束します」

「いや主人公というのは言われずとも察しなければならんのだ。おぬしから来られてはなぁ……」

「主人公というのは大変なのですね」

「そうだ、だからこそかっこいいだろう」

 ならば太公望は既に主人公の条件を満たしているだろう。
 とは思ったけれど、名前が言うことはなかった。言っても太公望は認めないだろうし、言うべきことでもないと思った。

「それより、これからは一層忙しくなるぞ」

 資材の確保に城壁の強化、武力の増強ーー指折り数える太公望に、名前は笑いかけた。

「ええ、でも……みな力を貸してくれるでしょう」

「うむ……」

 難しい顔をした太公望にはいまだ迷いがある。その肩を名前は叩いた。

「主人公とは格好いいものなのでしょう?ならば笑っていてくださいませ、太公望どの」

 きっと太公望はずっと気に病む。人を傷つけたことを。仙道により乱された世を。
 ここで笑えと求めるのは酷なことだろう。それでも太公望はその道を選んだのだ。彼もわかっているから、「そうだのう」と小さく笑った。

「しかし主人公にはヒロインが必要だからのう……」

 ーーヒロイン?
 新しい言葉に名前はきょとんとした。ヒロインとはどのようなものだろう。
 その疑問に、「主人公の相方となる娘子のことだ」と太公望は答えた。答えたあとで、ポンと手を叩いた。おお、そうだ。閃いたという目が、名前を向く。

「おぬしがおるではないか!うむ、今日から名前がヒロインだ!!」

「はぁ……」

 よくわからないが、太公望がいいというなら名前に反論はない。「太公望どのの相方とは荷が勝ちすぎすぎるような気がしますが……」まぁいいでしょう、と名前は受け入れることにした。
 気がつけば胸にあった空虚感は薄らいでいた。それに気づいたのは太公望が去ってからであるけれどーー

「また世話になってしまった……」

 この借りは本当に返せるのだろうか。
 名前は項垂れ、しかしすぐに立ち上がった。落ち込んでいる暇はない。そんなことより太公望の言うようにやるべきことは山積みだ。
 寂しさを振り払って、名前は仕事に戻ることにした。太公望の、この国の力となるために。