シルバーティップ
透の様子がおかしいーー。
最初は子供の声。次は蘭の言葉。そして江戸川少年が意味深に言った「ゼロの兄ちゃん」という呼び名。
これが透だけの問題ならよかった。けれど名前には江戸川少年の態度が気にかかる。嫌な予感がするといってもいい。彼に透の何かを勘づかれたとしたらーー
江戸川少年には手を出すなとベルモットから言われている。それでも透に危険が及ぶなら、と杯戸中央病院の扉を潜りながら少年の小さな背中を睨み据えた。
「正直呪われてますよこの病院……。前にも色々あったみたいだし」
通報に駆けつけた高木刑事が毛利探偵の隣でぼやく。事件発生は昼過ぎだったにも関わらず、既に日は傾き、街並みは黄昏色に染まっていた。
高木刑事の発言に、呪われているのはこの病院だけじゃないだろうと名前は思った。この街ではあまりに事件が重なりすぎている。彼ら刑事も大忙しだろう。
「お疲れさまです」本心から労うと、穏和な刑事は「ありがとうございます」と照れくさそうに頭を掻いた。
「色々ってたとえば?」
杯戸中央病院。組織の人間、楠田陸道が入院していたところ。そこであったという"色々"とはなんなのか。
名前との会話で気を抜いていた刑事は、透の質問にあっさりと口を滑らす。
「アナウンサーの水無怜奈が入院してたって噂になったり、ケガ人が押し寄せてパニックになったり……爆弾騒ぎもあったとか」
「た、高木刑事!」
突然声を上げた江戸川少年。
「もう警視庁に帰んなきゃいけないんじゃない?」言っていることはもっとも。だがその頬に走る焦りを透は見抜いていた。
慌てて時計を見る高木刑事に、透が笑みかける。
「じゃあ楠田陸道って男の事とか知りませんよね?」
なんとなく訊ねてみた、そんな語調で。さしたる大事ではないような口振りで。
今最も頭を占めている問題を口にした。
「楠田陸道?」
気のいい刑事は時間に追われていても質問を無下にすることができない。だからその"答え"を提示することへの抵抗が薄らいでいた。相手が探偵とはいえ一介の市民であることは頭から抜け落ちていた。
「ああ!!そういえばその爆弾騒ぎの何日か前にこの近くで破損車両が見つかって……その車の持ち主が楠田陸道って男でしたよ!」
「え?」
破損車両の持ち主。それは思いもがけない話だった。
思わず驚きの声を漏らし、名前は透を見上げた。意外に思ったのは彼も同じで、続きを促すように高木刑事を見やった。
「この病院の患者だったそうですけど急に姿をくらましたらしくて……」
「謎の多い事件でね」と高木刑事は前置きする。
「その破損車両の車内に大量の血が飛び散っていて。1oに満たない血痕もあって、鑑識さんが言うには……」
1oに満たない高速の飛沫血痕。拳銃だ、と名前にも推測がついた。そしてそれは険しい顔をした江戸川少年を見るに正しいのだということも。
「ありがとうございます、高木刑事」
礼を言う透に手を振って、高木刑事は駆けていった。ありがとう。本当に、心からそう思う。
「……名前はどう見る?」
帰りの車内。毛利探偵のいなくなった今、包み込むのは張りつめた静寂だ。
透は前を向いていた。道の先、そのずっと先を見ていた。あるいは、この捜査の結末を。
棄てられた車。残った血痕。これらが示すことはたったひとつ。
「遺体のすり替え……」
しんとした車内に落ちる名前の声。それは存外圧し殺したものとなっていた。
これは容易に口にしていいことではない。名前でもわかっている。わかっているけれど、でも、それしか考えられなかった。
行方の知れない組織の男。その車内に残された拳銃による血痕。普通に考えれば男はもう亡くなっているだろう。けれどその遺体がないということは誰かが持ち去った以外に考えられない。遺体がひとりでに歩くわけがないのだから。
そして遺体を持ち去る意図。なにか重要な秘密をその体が握っているから、とは楠田陸道が組織の幹部でもないこと、そしてその行方を捜索されていないことからも明らかだ。ならば遺体の使い道なんて"それ"以外名前には思いつかなかった。
もし、それが真実なら。
「キール、は」
組織を裏切ったということになる。
だから名前の声は自然と沈んだものになった。滲むのは彼女の今後への憂慮。
名前はキールが嫌いじゃなかった。組織には似つかわしくない、優しさの残った女性。名前に人として接してくれた数少ない組織の人間。
ーーそれでも。
「……降りるかい」
「……ううん」
名前はもう選んでしまった。キールがその道を選択したように。
透の隣を歩くことを。
「でも、もしも"そう"なったら、私は、彼女を汚したくない。そうなるくらいなら私が、この手で」
死という制裁。それは当人が亡くなったあとも続く。痕跡は消され、その遺体が穏やかな埋葬を得られることはない。鎮魂はなく、尊厳はなく。ただ存在を消されるのだ。
そんなのは嫌だった。ーースコッチ、彼のようには。
「……うん、」
透は静かに答えた。その肯定は名前にとって救いだった。
透の願いの成就を望んでいた。それは今も変わりない。でもそれに伴う犠牲を目の当たりにすると、名前の胸は痛んだ。