姫発、出会いを回顧する

 南宮括の娘、名前は口やかましい女である。

「なにをだらけているのですか、姫発さま。そのような姿を民に見られたらどうするのです」

 ちょっと欠伸をしていただけでこれだ。
 こんこんと説教を始めそうな名前を前に、姫発は片耳を塞ぐ真似をした。うるさい、と。
 そんな姿を見て名前は柳眉を逆立てた。

「確かに出過ぎた真似はいたしませんと約束しました。ですがそれとこれとは別です。王たるあなたに民が不信を抱いたらと思うとわたしは、」

「はいはい、わかったわかった」

 名前の言いたいことはわかる。彼女が純粋に姫発を案じているのだということも。
 姫発は周の王となった。身の丈に合わない……とは自分でも思う。けれど父も太公望も姫発を王と認めた。そして姫発自身もそうであることを望んだ。民を守る、その道を。
 名前は姫発を幼いときから知っている。彼女の中ではいまだにその時の名残が消えていないのだろう。ゆえに姫発のことを過剰なまでに心配する。今は民に背かれる将来を勝手に想像して、想像の中の姫発の身を案じ胸を痛めている。
 ーーそんなことに気を回すくらいなら、俺の気持ちを察してくれりゃあいいのに。
 かといって姫発から名前を求めることもできなかった。それは王の命に等しく、その求めを家臣である名前が断ることはできない。たとえその心が誰にあろうとも。
 だから彼女自身に気づいてもらう必要があった。そして自分の意思で選びとってもらわなければならなかった。
 ーー気の遠くなるような話だ。

「それで、俺に何をしろって?」

「そうですね……、まずは諸侯からの親書に目を通していただきましょうか」

 どれだけの者が城に入るかによって城下の宿の手配も変わってきます。それに近々行われる武王による演説の手筈も考えていただかなくては諸侯に報せも出せません。歓待の用意もありますし、それから……
 名前の話を聞くだけで頭が痛くなる。「うへぇ」と舌を出すと、彼女は大仰な溜め息を吐いてみせた。

「……要約した内容をお伝えしますし、御返事も代筆させますから」

「ならまぁやってやるかな」

「もう……」

 立ち上がった姫発からは呆れた顔で腕を組む名前が見下ろせた。それだけの身長差が二人にはあった。……名前は、気にしてないようだけれど。

「面倒なのは嫌だからな、人払いをしておけよ」

「もう済んでおります。そうおっしゃると思いましたので」

 姫発の邪な思いなど知らないくせに、名前は姫発の望むものを与える。二人きりの執務室。誰にも邪魔されない、姫発と名前だけのーー

「さぁ姫発さま、今日も頑張りましょうね」

 なのに名前の発言には色気がない。まったく。一片も。腕捲りをした彼女の頭には仕事のことしかなかった。
 ーー溜め息を吐きたいのはこっちの方だ。
 姫発はそう思ったが態度には表さなかった。それもそうだ。嫌になるほどこんなことを繰り返しているのだから。もう何年も。

「……ったく、しょうがねぇなぁ」

「しょうがないとはなんですか、しょうがないとは」

 怒った顔もかわいいーーなんてことは、口が裂けても言えやしないが。


 姫発が名前と出会ったのはもう10年以上も前のことだ。
 姫発自身よく覚えていないが、なんらかの宴席の余興に子供たちの剣術試合が開かれた。
 参加者は諸侯の子息。獲物は練習用に歯を潰した剣。
 そんなものが当時の姫発には重かった。なんなく扱う兄の姿も、周囲の目も。
 兄のことは好きだった。尊敬していたし憧れてもいた。でも周りはそれだけでは許してくれなかった。人々は兄と姫発を比べ、父を哀れんだ。ーー長兄がご立派に育って本当によかった。会食の席で拾ってしまった声。それまでは気にしないようにしていたのだが、剣術試合への緊張もあって姫発の目の前は真っ暗になった。逃げたい、と本気で思った。
 だから試合の前、天幕から離れたところでひとり膝を抱えていた。このまま時間が止まればいい。それか試合がなくなれば。そんなことばかりを考えていた時だった。

『何をなさっているのです?』

 声の主は姫発よりも小さな子供だった。ゆるく波打つ黒髪を1つで結び、品のある、けれど動きやすそうな衣を身に纏っている子供。
 一目で剣術試合の参加者だとわかった。でも知らない顔だーーもっとも、姫発の知る子供などそう数はいないのだが。

『……見ればわかるだろ、なんにもしてねぇよ』

 姫発はぶっきらぼうに言った。見知らぬ子供にまで自分の領域を侵されたくなかった。ひとりにしてほしかった。
 なのに子供は姫発に歩み寄った。姫発が止める間もなく目の前に膝をついた。

『なんにもしてない者の顔ではありません。何かお悩みなのでしょう』

 子供の目は零れ落ちてしまいそうなほど大きかった。そしてその顔が子供心にも綺麗だと思うほど整っているのにも気づいた。
 子供の細い眉はきゅっとしかめられ、真っ白な額には皺が寄っていた。怒り出す一歩手前。そんな感じがしたから姫発は内心身構えたのだけれど、次に発した言葉に瞠目した。

『何かご気分を害されるようなことがありましたか?不敬な者でも?ならば仰ってください。わたしが必ずや仕留めてみせましょう』

 子供は真剣な顔で言った。初めて出会った子供、姫発相手に。姫発よりもずっと細い腕は剣を扱うことすら難しそうであるのに。
 だが子供の声には気迫があった。強い意思が感じられた。自分が頷けば宣言通りに事を成すのだろうという予感を姫発に与えた。

『……ヘンなやつ』

 子供の、それも次男の姫発相手にここまで真剣になる者は少なかった。軽んじらているわけではなくとも、それでも一番はいつだって長兄のものだった。
 だからーーだろうか。
 姫発はつい口にしてしまった。今まで誰にも言ったことのない本心を。兄と比べられることの苦しみ、父を失望させやしないかという恐れ。包み隠してきたことを会ったばかりの子供に話してしまった。

『笑いたきゃ笑えよ』

 言ってから姫発は後悔した。
 子供の身なりはいい。きっと諸侯の子息のひとりだろう。そんな子供に打ち明けてしまった。子供は父親に報告するだろうし、きっと笑い者にされるに違いないーー
 けれど子供は首を振った。『いいえ』と。

『わたしに姫発さまのお気持ちを真に理解できる日はこないでしょう。それでも姫発さま、ひとつだけ言えることがございます』

 子供は真っ直ぐな目で姫発を見た。

『伯邑考さまに敵う者などわたしたちの中にはおりません。だから伯邑考さまを相手取る必要はないと思います』

 それより、と子供は言う。

『そのような不敬を働いた者より強くなる方がよほど簡単なことです』

 口さがない連中など剣で黙らせてしまえ、と子供は言うのだ。
 それはあまりに安直で、子供らしい考え方だった。だがその単純さが今の姫発にはちょうどよかった。

『……そうかもな』

 姫発が笑うと、子供も頬を緩めた。薄い紅がさし、瑞々しい唇が弧を描く。その時初めて姫発は子供の睫毛が長いこと、真白い輪郭が華奢なことに気づいた。

『お前、女だったのか』

『そうですが』

 子供は、少女は「それがなにか」といった顔で首を傾けた。そんな仕草も今の姫発には少女のそれにしか見えなかった。姫発の手をとるちいさな爪も、笑みかける薔薇色の唇も。今ではもう男物の服を着ているのに違和感を覚えるほどだった。

『それより姫発さま、もうすぐわたしの番が回ってきます。ぜひご覧になってください』

 あなたのために、この剣を振るいますーー
 そう言って頭を垂れた少女に、胸が熱くなる。名前は、と問う声が掠れたのすら気にならなかった。

『名前、と申します』

 姫発さま、と見上げた彼女の黒い瞳は長い月日が経った今でも変わることなく真っ直ぐ姫発を見つめている。
 だからその眼差しが失われることなど考えもしなかった。考えたくなかった、と言ってもいい。

「畜生あいつら何て事を!!」

 豊邑を襲う朝歌の仙道。魚の形をした宝貝。崩れていく家屋。飲み込まれる人々。
 姫発の胸にあるのは敵への怒りと殺される人々への痛みとーー名前の姿が見えないことへの焦りだった。
 名前を喪うーーそれは彼女が伯邑考の婚約者となった時以上の息苦しさを姫発にもたらした。その痛みの前には敵に殴られたことすら霞んだ。ただただ彼女の無事を祈った。
 だからーー

「ーー名前っ!!」

 黄飛虎に助け出されたあと、救護に走る彼女を見つけてーー思わずその体を抱き締めた。
 よかった、と心底思った。この腕の中にあるちいさな体を失いたくないと。手放すことなどできないと。

「……姫発さまも、よくぞ御無事で」

 安心したように身を預けてくれるところも、姫発に応えて背中に回る手も。
 ーーそのすべてが愛おしいと思った。