追憶2

 僕が名前に話したのは、伊達という友人がいたことと彼が亡くなったということだけだった。それに付随するいくつもの事柄――伊達の職業であるとか彼との出会いだとか、ついぞ返信することのなかったメールの存在だとか、そういったものには一切手を付けなかった。そうしなかったのは――なぜだろう?名前に疑いを持っていたから、というだけではどうもしっくりこない。それならそれでもっと上手くことを運んでいたし、スコッチのことを触れられた時点で職業を隠し立てする必要もなくなった。僕が名前に一部でも真実を打ち明けたのは、彼女が既に”こちら側”に足を踏み入れているという確信があったからだ。それでもなお隠していたのは――特にメールの件なんてひどく些末なものじゃないか、これを知られたからといって”俺”の仕事になんら支障はないはず――どうしてだろう。いや、本当は分かっているのだ。しかしそれはあまりにかっこうがつかないものだから――(だってそうだろう?彼女が抱く僕という幻想、それが壊れるのを恐れたなんて、恥ずかしいにもほどがある)僕は胸に仕舞っておくことにした。
 結局のところ、僕が多くを語ることはなかった。名前も追及しなかった。彼女は「そうだったの」と言って(その声は震えていた)、僕の手を握りしめた。「ごめんなさい、こういうことは……その、」琥珀の目を彷徨わせ、「……深く聞くべきじゃなかった」頭を下げた。

「それでも、あなたが話してくれたことは嬉しいの。ひどく身勝手だけど……あなたの友のために祈らせてほしい」

 実直な言葉だった。女性というのは概して言葉を飾り立てるものであったけれど、彼女はといえば愚直なまでに取り繕うことを知らない。それは出会った頃から変わらないが――しかし感情の色濃く現れた顔だけは大きく変化していた。
 名前との出会いは数年前に遡る。彼女は既にスコッチを慕うようになっていて、その後で僕は彼女に接触した。だからその時にはもう変化の兆しはあったのだと思う。スコッチがそれを匂わす発言をしていた。つまりはそう、彼女は使えるかもしれないという話を。

「はじめまして、コードネームはバーボンといいます」

 どうぞよろしく。そう言って握手をしたのが始まりだった。彼女は感情の見えない眼で僕をじいっと見ていた。それでも素直に手を出すのがおかしくて、なるほど、犬らしいと内心頷いた記憶がある。
 出会ったばかりの彼女が表情を変えたのは一度。ジンの話を持ち出した時だった。

「君のことは噂で聞いてますよ。なんでも、ジンのお気に入りだって」

 組織にはフェンリルと呼ばれる実験体が何人もいて、彼らは使えないと判断されると地下闘犬場送り(言葉を変えれば殺処分ということだ)にされるという。生み出された年ごとに序列をつけられ、それに応じたナンバーが割り振られる。名前はノーリ、ゼロの名を貰っていた。
 ジンは彼らを人として扱っていなかった。けれど名前のことは評価しており、フェンリルを必要とする仕事では必ずといっていいほど名前を連れ出していた。この扱いはお気に入りといってもいいだろう。
 だが、その気持ちは一方通行らしかった。僕がその話を振った途端、名前の眉間に皺が寄る。ほんの微かに。

「……人違いでしょう、なんなら電気椅子に賭けてもいいけれど」

 僕は思わず声を上げて笑った。スコッチ、お前の見立ては正しい!怪訝な顔の名前に、僕は笑顔を向けた。君とはいい付き合いができそうだ、と。
 そうして今、当時の予感通りに僕は名前と寄り添っている。僕は彼女の手を握り返し、「祈ってくれ、僕の友のために」と答えた。
 それから、僕たちはスコッチの話をした。彼女は彼との最後を、僕は彼との最後を。話している間も僕たちは手を握り合っていた。そうするのが自然だとでもいうように。