ベルツリー急行への乗客

 ポケットから伝わる振動に、名前は商品棚に伸ばしかけていた手の行く先を変えた。振動の正体はスマートフォンで、メールの送り主は透だった。今日は帰りが遅くなるが夕食は必要だという旨と、おおよその帰宅時間。それだけが記された簡素なメール。およそ彼らしくない――つまりは明朗闊達な”安室透”像とはかけ離れた文面。しかしこれが彼の素に近いものなのだろうと最近になってようやく掴めてきた。
 ふむ、と名前は顎に手をやる。これは先に夕食を済ませていいですよということなのか。しかしさして遅い時間でもないし……。考えながら、名前は白菜を買い物かごに入れた。よし、今夜は鍋にしよう。
 透が帰ってきたのは予定よりも10分ばかし早かった。

「先に食べててくれてよかったのに」

 ただいまの次のセリフがこれだ。名前は鍋を温め直しながら、左手を腰に当てた。

「そう思うんなら早くテーブルに着いて。でないと空腹に負けてあなたを食べてしまいそう」

「頭からがぶりと?」

「つま先まで残さずね」

「じゃあそんな怖い怖いベート様のお怒りをかう前にお祈りでもしてくるかな」

 ベート、ベートですって?「私は無差別に人を襲ったりしないのに」名前は洗面所に向かうジャン・シャステルに唇を尖らせた。まったく!失礼にもほどがある。『神々の黄昏』をもたらすフェンリルという呼称よりもよほどひどい。オオカミにはローマやモンゴルの覇者を生み出した華々しい過去があるということを忘れないでいただきたいものだ。
 ご立腹の名前だったが、振り返った透が優しい目で「そんなこと、とうに知ってるよ」と言っただけでころりと機嫌を直した。もちろん形だけは怒った素振りで――顰め面のまま顔を背けていた。しかし頬が緩むのは隠しきれない。そんなこと、とうに知ってるよ。名前を認めていると告げる言葉と眼差し。これで喜ばない飼い犬はいないだろう。
 ご飯をよそいながら、知らず知らずのうちに名前は鼻歌を歌っていた。その姿を戻ってきた透に見られていたことも、彼が微笑ましいと言わんばかりに目を細めていたことも、彼女が知ることはないのだが。

「ハッキング?」

 なごやかな食卓に相応しくない単語が透の口から飛び出したものだから、名前は思わず眉間に皺を寄せた。
 透も厳しい表情で頷く。「ああ、僕の他にも探りを入れてるヤツがいるようだ」それが誰なのか、目的は何なのか。手がかりがない現状ではどうすることもできない。忌々しいといった顔で透は箸を進める。苛立ちからか、いつもより食事のペースが早い。……ご飯は足りるのかしら。名前はそちらも心配になった。多めに炊いているけれど、今の彼なら全部掻っ込んでしまいそうだ。

「探偵やあるいは医者なんかは情報の宝庫だから狙われるのは不思議ではないけれど……」

 首を捻ると、透が片眉を上げた。「けれど?」続きの催促ときらりと輝く碧眼。

「……タイミングが良すぎる」

 何がしかの期待を寄せられ、自然と名前の声は落とされた。見当違いのことを言っていたらどうしよう。呆れ果てた透にアメリカ行きの片道切符を渡されるのは困る。だから彼が満足げに「その通り」と言った時には、安堵のあまり肩の力を抜いた。まったく!心臓に悪いったらありゃしない。

「あなた以外に毛利探偵の周囲に張り付いてる人物……」

 何かを探っているような素振りを見せた人物といえば世良真純が一番に思い浮かぶ。だが彼女がやったという証拠はない。結局、名前にできるのは想像を巡らすことだけ。建設的とはいいがたい。

「……とりあえず、この件は横に置いておこう。でも用心するに越したことはない。名前のことも知られてるだろうから、気をつけるんだよ」

「透もね」

「僕は平気だ――いや、分かった、分かったよ。僕も最大限気を配る」

 透は降参だ、と両手を上げた。それを受け、名前の目つきも和らぐ。「その言葉、信じてるから」彼の才は確かなものであるが、釘を刺しておかないと名前の気持ちが収まらなかった。

「じゃあ代わりにベルモットへの連絡は任せたよ」

「それはいいけど、でもどうして?」

 ベルモットと揉めでもしたのだろうか。これまで透が彼女を避ける様子は見られなかったから何かあったのかと勘ぐってしまう。
 しかしその予想はあっさりと否定された。

「好き好んで魔女に近づくような酔狂さは持ち合わせてないんでね」

 気をつけろと言ったのは名前だろう?君には魔除けの牙もあることだし――。そう微笑まれては頷くより他はない。もとより、断るつもりは毛頭ないが。
 かくして、二人のベルツリー急行への乗車が決定したのであった。