武官、哮天犬に乗る


 魔家四将による周への攻撃のあと。太公望は豊邑より東方、殷との国境に砦を築くことを決めた。

「わしらがおると民にも迷惑がかかるでのう」

 その指揮を楊ゼンに任すと太公望は言う。楊ゼン自身それに異論はない。

「まぁ僕くらいにしか適任はいないでしょうからね」

 国となった西岐に殷が遠慮することはない。それは先の襲撃からも明らかだ。この上要塞を作るとあってはあちらも黙っていないだろう。
 建設中に攻撃を受ける可能性がある以上、現場には道士が赴く必要がある。楊ゼンひとりならば並みの妖怪仙人では相手にならないだろうし、彼ならば要塞の建設も兵への指揮も可能だ。彼自身が言う通り、適任者は他にいない。
 「けれど、」と楊ゼンは続ける。

「僕ひとりに指揮をさせては兵も着いてこないでしょう」

 楊ゼンは人ではない。いかに民衆が仙道を崇めているとはいえ、人の上に立つにはやはり人が一番だろう。
 楊ゼンの意見も一理ある。だがそれ以上に太公望には気になるところがあった。

「おぬしのその言いよう……目星がついておるのだな」

「ええ」

 笑顔の楊ゼンはひとりの名前を出した。
 おかげで名前は楊ゼンに着いていくことになったのだ。

「そりゃあ光栄なお話ではあるのだけど……」

 早朝。出立の用意を整えながら名前はぼやいた。
 楊ゼンから指名を受けた。光栄なことだ。それでも納得がいかないものはいかない。
 名前が楊ゼンと接した時間はさして多くない。密度の濃い会話をした覚えも。だから何が彼の目に止まったのか不思議だった。

「どうかしましたか、名前さん」

「いえ、なんでも」

 いつの間にか楊ゼンが背後に立っていた。音もなく気配もなく。まったく、心臓に悪い。太公望といい楊ゼンといい……彼らにその気はないのだろうが、だからこそ余計に厄介だった。
 わたしがそれに対応できるように精進すればいいだけか。ひとり頷き、名前は愛馬の首の付け根を叩いた。よろしく、という意味を込めて。

「用意は終わりましたか?」

「はい。……あの、お待たせしましたか?」

「いいえ、そうではありませんが」

 未だ兵たちは積み荷を確認したり名前と同じく馬の具合を確かめたりしている。今すぐに出立というわけではない……はずだ。
 でも楊ゼンは疑いようもなく名前を待っていた。発言からも空気からもそれは察せられた。
 ならば何か用があるのだろう。
 名前の予想は正しかった。ただ、その内容が想像を越えていただけで。

「……あの、もう一度お願いできますか?」

 楊ゼンの言葉が頭に入ってこなかった。耳を通っただけで空気に溶けてしまった。
 困惑する名前に、楊ゼンはやはり笑顔で言い放つ。

「ですから、名前さんには僕と一緒に哮天犬に乗って移動していただこうかと」

 聞き間違いじゃなかった。
 目眩がした。ーー道士さまと道士さまの宝貝に乗る、ですって?
 おそれ多さに名前の唇はおののいた。

「ええっと、それは如何なる理由で……」

「哮天犬の方が馬よりも先を行けますし、空から全体を見渡せます。ですから敵の早期発見も可能です。その時僕ひとりでは兵に伝達できないでしょう?」

 楊ゼンの言うことは理にかなっていた。仮に敵襲を受けたとして、空で楊ゼンがそれを食い止めている間に名前が兵たちに伝達し遠ざける、そうすれば被害も抑えられるはずだ。天然道士の名前なら空から落とされても無事だろうし。

「しかしその……重いでしょう?二人も乗せては」

 名前の気がかりはそこだ。
 哮天犬。一度触れさせてもらったが、本当に美しい宝貝だった。主人に似て、触れることを躊躇わせるほどに綺麗だった。
 大丈夫なのかしら、と楊ゼンの後ろで控える哮天犬を窺い見る。と、彼は元気よく吠えた。

「哮天犬は問題ないと言っていますよ」

 そうまで言われて名前には断る術などなかった。愛馬を部下に預け、哮天犬の世話になることにしたのだった。

「わぁ……っ」

 乗り気ではなかった。はずなのだけれど、実際に飛んでみるとその考えは吹き飛んでしまった。
 空を飛ぶ。名前には初めての経験だ。そしてそれは思った以上の喜びを名前にもたらした。

「綺麗でしょう?」

「ええ、本当に……」

 背中からかけられた声にうっとりと答える。
 一望する世界。地平線は遠く、世界はどこまでも続いているように思えた。限りない可能性を名前に感じさせた。
 頬を打つ風は常よりも清々しい。靡く草原は緑豊かで、畑を揺らす麦の穂は輝いている。小川は日を浴びて煌めき、兵に気づいた子供たちが手を振っている。息づく自然と寄り添う人々。美しいと思った。同時に失いがたいとも。

「我々には見慣れたものですから、その感動が羨ましくもあります」

「仙人界は天にありますものね」

 では彼らから見る人間などほんのちっぽけだろう。なのに楊ゼンたちは守ろうとしてくれた。それがどれほど幸運なことかーー理解し、胸が熱くなる。

「他人事のように言いますね。……あなたもいずれこちらに来ることになるのに」

 涙ぐむ名前の耳に、楊ゼンの静かな声が落ちる。
 名前はハッと振り仰いだ。目前にある秀麗な容貌。冬の空のような瞳が名前を見下ろしていた。

「そう、しなければならないのですか」

 やはり、と言う名前の声は沈んでいた。
 名前は天然道士だ。そうであると太公望から教えられた。けれど今すぐに仙人界へとは太公望は言わなかった。名前も聞けなかった。聞くと姫発に言ったにも関わらず、いざ太公望を前にすると言い出せなかった。
 太公望だけじゃない。天化にだって聞けなかった。彼は名前が仙人界に来るものだと思っている節があった。親身になって仙人界のことを教えてくれる天化を前にして、名前はやはり何も言えなかった。
 楊ゼンはそのすべてを見抜いていた。

「迷いがあるのですね」

 そう言った声は驚くほど優しい。人より一段上のところにいる者特有の声音だった。
 だから名前の口も自然に動いた。誰にも言い出せずにいたことを。そうと思う間もなく溢れ出していた。

「わたし、迷っています」

 名前は目を伏せた。浮かぶのは父のこと、姫発のこと、この国のこと。同時に、心の奥底にある利己的な願いも首をもたげる。

「この国の助けとなりたい、確かにそう思っています。これは幼い頃からの夢ですから」

 でも、と名前は我が儘を口にする。

「試してみたくもあるのです。己の限界を」

 目に焼きついているのは先日の戦い。目にも止まらぬ刃。心奪われる動き。天化の戦いが名前は忘れられないでいた。
 吐露した心を楊ゼンが笑うことはなかった。「そうですね」緩く肯定して、名前を柔らかな目で見た。

「難しく考えることはないと思いますよ。どのみち今は乱れた世を立て直すことが優先されますし……。それからのことは戦いが終わったあとでも遅くはないでしょう」

 楊ゼンの言葉は胸中の霧を晴らした。仙道である者からの許し。それはなにより名前の心を軽くした。

「それよりすみません、あなたも忙しいでしょうにこちらの都合で付き合ってもらってしまって」

「いいえ!わたしの仕事など他の者でも回せますし、働いていれば気も紛れますから」

 眉尻を下げた楊ゼンに、慌てて名前は両手を胸元で振った。
 最初は不思議がっていたけれど、彼の意図を知れば納得がいった。だから不満などない。
 「気を紛らわす必要が?」楊ゼンがやると首を傾げる姿すら絵になる。
 悪戯っぽく瞬く目に、名前は苦笑した。

「自分でも必要のないことだとは理解していますが……、その、天化どのの具合が気にかかって」

 黄天化。先の戦いで四肢に深手を負った彼は師匠と共に仙人界へ帰還していた。
 「大丈夫さ」別れ際も彼は笑っていたけれど、名前は気が気でなかった。彼ほどの戦士ならば本人の言う通り平気だろうーーそう、頭では理解しているのだけれど。
 言うと、「ああ、」と楊ゼンは頷いた。そして、「それは本人に伝えた方がいいですよ、天化くんも喜ぶでしょう」と言った。

「ですがお伝えする術がありません」

「ならば手紙を書いてみては?」

 届ける届けないは別にして、今の心境を綴っておくことが大切だ、と楊ゼンは名前を諭した。

「それに言葉よりも手紙の方が本心を伝えやすいでしょう?」

 確かに、と名前は思った。本人を前にしたらなんだか気恥ずかしくて言い出せそうにない。そんな予感がする。
 ーーそれにしても。

「楊ゼンどのは太公望どのに似ていらっしゃいますね」

「え?」

「だって、お優しいんですもの」

 楊ゼンも太公望も、それとなく名前の助けとなり導いてくれる。そして二人とも名前たち人のことを考えてくれている。
 それになにより、纏う空気が似ていると思った。

「優しい、ですか……」

 けれど楊ゼンはわずかに目を反らした。その声には困惑と、何か別の複雑なものが入り交じっていた。

「楊ゼンどの?」

「いえ、なんでもありません」

 ありがとうございますと言った彼からは先程の気配は消え失せていた。あるいは覆い隠されていた。
 しまったな、と名前は思った。どうやら彼にも何か背負うものがあるらしい。それがなんなのか名前には聞く勇気も権利もない。
 だから名前は口をつぐんだ。ほんの少しの寂しさが胸にあった。